お題:幸福

 今日の天気は晴れ。村はいつものようにのどかだ。遠くからは、収穫したぶどうを踏む乙女たちの楽しげな笑い声が聞こえる。

 今日は何をするかと考えながら洗濯物を干していると、裾を掴まれた。振り向くと、不健康そうな少女が立っている。

「ん、どうしたの?」

「おなか……すいた」

「そっか。じゃあお皿出してくれるかな」

「ん……」

 ふらり、ふらりと台所へ向かう少女。だらりと下がった腕に縮こまるように曲がった背中、病的に白い肌と目の下を縁取るように濃く刻まれた隈。どこを見たってまともではない。

 彼女は僕が従軍していた頃、森で彷徨っていたところを保護した少女だ。酷い体験をしたのか、記憶も生活能力もなくしており、放って置けないので一緒に生活している。……という、設定だ。

「あ……」

 パリンと皿が割れる。取り落としたようだ。急いで駆け寄るが、彼女は落とした皿の破片を取ろうとして、指先を切ってしまった。

「っ。ゆび、いたい……ち? ち、血、血……あ、あぁあ。あああぁッ!?」

 小枝のような指先から溢れ出す血を見た途端、少女は半狂乱になって頭や頬を掻きむしる。

「落ち着いて! 大丈夫、もう大丈夫だから!」

 覆い被さるように取り押さえても、凄まじい力で暴れ続けた。よだれも涙も、爪で裂いた頬から溢れる血も振り撒いて、少女は泣き叫ぶ。

「ごめんなさい! いっぱい、いっぱい殺してごめんなさいッ、血が、痛かったよね、ごめんなさい、許して、もう、いや……」

「……もう、誰も死なないから。大丈夫、だから……」

 泣き続ける彼女の目に僕は映っていない。きっと僕の声も届いてやしない。

 先の戦争で、優秀な兵だった彼女は新兵器の使い手に選ばれた。その兵器のおかげで僕らの国は勝利を得た。敵国民の七割を殺害することで、地獄のような圧勝を得た。

 何が行われたのか、後方支援だった僕は知らない。ただ確かなのは、帰還した彼女がもはや正気でなかったことと、彼女があまりにも人を殺しすぎたことだ。

「……国には、きみが崖から飛び降りて自殺したって報告した。もう誰も、きみを追いかけてこないんだ」

「ごめんなさい、……ごめんなさい……」

 うわごとを呟き続ける彼女が縋るこの腕は、きっと僕じゃなくてもいい。彼女に必要なのは僕じゃなくて、世話をしてくれる人間なのだから。

 きっと彼女が正気に戻ることはない。犯した罪を忘れることも、決して。

 僕に唯一できるのは、彼女が発作を起こさないように気を配ること。

・戦争、殺人、罪に関係する言葉を言わない

・炎を見せない

・大きな音を立てない

・雷の日は片時も離れない

・血を見せない

 これからも増えていく禁止事項だけが僕の贖いであり、この少女に人間の範疇を超える罪を押し付けた世界にできる反抗だ。

「ごめ……なさ、い……」

「……おやすみ。せめて、いい夢を」

 いまの彼女にとっての幸せな時間は、夢か現かもわからない間だけなのだから。


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