お題:紐
本日晴天也。大正元年六月五日。
日誌代わりの手帳にそう書くと、彼は軍帽を被り直して歩き出す。
太陽が昇ったばかりの早朝、人の目がなくとも国民の模範たる憲兵が巡回を欠かすことはあり得ない。
「……眠気が尽きませんな」
しかし、彼らも人間である。呑気に欠伸なんて見られようものなら上官から鉄拳が飛ぶ為、彼は必死で欠伸を噛み殺し続けていた。
「憲兵様。お、お早う御座います」
そんな巡回中、声を掛けてきたのは近所に住むお淑やかな令嬢である。
「おや、お早う御座います。自分に何か要件でありますか?」
少し屈んで目線を合わせ、憲兵は努めて柔和な笑顔を作った。男が無闇に笑顔を見せるのは軟弱であるとされる世だが、これが彼なりに女性を怖がらせない為に身につけた処世術である。
「い、いえ。その……こ、こちらをどうぞっ」
小さい手のひらに乗せて差し出されたのは、小豆色と朱色の組紐だった。
「これは?」
「お、御守りにございます。いつも私たちの平和を守ってくださる憲兵様が、危険な目に会わぬようにと…………ご、御迷惑でしたか?」
「いえいえとんでもない。この青二才には勿体ない、心の篭った贈り物に驚いたのです」
彼は恭しく胸に手を置いて一礼すると、それを丁重に受け取った。
「頂戴致します」
「っ、有難う御座います! そ、それではっ」
頬を赤くして逃げるように去った令嬢を見送り、憲兵の青年は嘆息した。
「御守り……近頃の治安が少々乱れたので、心配させてしまいましたか」
組紐を大切に手首へ結んで、青年は襟を正す。
「御守りなぞ必要なく、我々が欠伸できる程に退屈な世にせねばなりませんな」
少し上機嫌に、しかし引き締まった表情で彼は仕事を再開した。
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