お題:歯ブラシ

「はぁ。歯磨き指導ですか」

 連休に親戚の家へ泊まりに行ったところ、叔母さんからそう頼まれた。

「そう。ウチの娘、いっつも歯磨き五秒で終わるのよ。乳歯のときに散々痛い思いしてるのに改善してないし……」

 俺にとって従妹にあたるその子は、天真爛漫で人の話を全く聞かない、ゲームよりも川で泳ぐのが好きないまどき珍しい元気娘だ。

「だったら俺が教えても無駄なんじゃ?」

「最後の頼みの綱よ。あの子、あなたには懐いてるから素直に言う事聞くと思うの」

 たしかに、昔からにーちゃんにーちゃんと懐いてくれているが、あの子も今年で小6、来年には中学生だ。そろそろ毛嫌いされてもおかしくはない。

 そう上手くいくかは疑問だが、無下にする理由もない。俺は首を縦に振った。

「わかりました。やってみます」

「ありがとう。あ、それにね。秘策もあるのよ」

「ひ、秘策?」

 嫌な汗が背中を伝う。何を隠そう、この人はことあるごとにショック療法を提案してくる発想がトんでいるタイプの人間なのだ。


 そして、案の定その秘策というのはショック療法まがいのものだった。

「たっだいまー!! ……え、この靴って、にーちゃん!?」

「お、おーう。おかえり」

「にーちゃーんっ!!」

 玄関先にサンダルを脱ぎ散らかしながら飛びついてくる日焼けした従妹は、純真無垢で実にかわいらしかった。

「なんだよぉくるならいえよぉ! おじちゃんとおばちゃんは?」

「いま用事で出てる。晩飯はみんなで寿司だってさ」

「やりぃ! スシスシ!」

 うきうきで小躍りしながら手洗いうがいをしに行く背中を見ていると、俺は数時間後にやらねばならない秘策に罪悪感を覚えた。

「ほんとにやるんすか……?」

「他に方法があるなら変えてもいいけど?」

「ぐ……」

 代案も思いつかず、俺は二度とあの無邪気な笑顔を見られないかもしれない覚悟を決めた。


「ぶぁー、腹いっぱい!」

「美味かったな」

「ん! あ、にーちゃん今日はどこで寝んの?」

「居間で親父と寝るよ」

「えー。あたしの部屋で寝ようよー!」

「いやそれはさすがに……」

 親戚とはいえ来年から中学生の娘さんと同じ部屋で寝るのは倫理的にアウトだろう。

 なんとか流そうとしていると、叔母さんが言う。

「早くお風呂入っちゃいなさい。今日はおにーちゃんが歯磨き教えてくれるんだから」

「は、はぁ!? あああたしそんな子どもじゃないしッ!」

「ちゃんと歯磨き指導受けるならあんたの部屋に布団持ってっとくけど?」

「風呂行ってくる!!」

 おい待て嘘だろ手段を選ばんぞこの人。

「よろしくね♪」

「叔母さんは俺とあの子をどうしたいんです……?」

「なるようになればいいと思ってるけど?」

「さいですか……」

「出た!!!」

「早っ」

 廊下を足跡と髪の水滴でびっちゃびちゃにしてきた従妹の頭をタオルで拭いてやり、いざ歯磨きの時間となった。

「歯ブラシ持ってきた! ちゃっちゃとやろう!」

「あー……じゃあ、……はぁ、しょうがねぇか。お前の部屋行くぞ」

「ん! ……ん?」

 さすがに、リビングでやる勇気はない。

 だって、膝枕で俺が歯磨きをしてあげなきゃならんのだから。

「に、にーちゃん? これ、幼稚園の時とかにやってたやつ……」

「俺もそうだったよ……ほら、口開けて」

「や、やだ! はずい!!」

「俺だって恥ずかしいっての……ほら、やんなきゃ終わらないぞ」

 しばらく逡巡していたが、従兄に膝枕されてる状況が限界になったのか、耳まで真っ赤にして口を開けてくれた。

「まず奥歯な。前に歯科検診行った時に聞いたんだけど、全体的に優しく、細かく、時間を掛けて磨くのが大事なんだってさ」

「ん……、……むぅ……」

 くすぐったいのか、時おり悩ましげな声が漏れる。健康的な小麦色の肌は茹だるように赤く、手は胸の前で祈るようにがっちり結ばれている。

「次、前歯な」

「んー……」

「やってるわね」

「んむぐ!?」

 布団を運んできた叔母さんが、意地悪く従妹の顔を覗き込んだ。

「ふぁーちゃんふぉふぇーふぁよ!!」

「そう、私がお願いしたのよ。これに懲りたら次からはちゃんと歯磨きすることね。次はみんなの前で公開処刑にするからねー?」

「ふふぁへんなふぉ!!」

「じゃあねー」

「…………」

 退室した母に対して娘が歯ブラシを頬につっこんで怒り心頭の中、俺はちょっとした興味で軽く犬歯のあたりを磨いてみた。

「ふひゃっ!?」

 尻尾を掴まれたピンク髪の宇宙人のような反応だった。

「すまん、痛かったか?」

「ん……平気へーふぃ……」

「ならいいけど」

 そのまま歯磨きを続けた。こぼれる吐息が多くなったのは気のせいだと思いたい。

 一通り終わる頃にはすっかり大人しくなり、俺の両親にも不思議がられるぐらい物静かになってしまった。

 そのまま寝る時間になり、二つ布団を並んだ布団に入り、電気を消した。

 少しして、控えめな声が聴こえた。

「にーちゃん、明日も泊まる?」

「泊まるぞ」

「…………そっか」

「行きたいところでもあるのか?」

「……どっちかというと、してほしいこと」

 ぽそぽそと歯切れの悪い言葉選びだった。

「俺にできることなら、まあいいけど」

「……歯磨き、明日もやって」

「!?」

 隕石が脳天に落ちたかと思うほど衝撃的なお願いを前に俺が硬直していると、もぞもぞと布団の中を通って手が伸びてきた。小さく、細く、熱い指が俺の指に絡まる。

「き、気持ちよかったんだもん……にーちゃんのせい、だからね?」

 はしたない願望を持った羞恥で紅潮した頬。

 それを伝えてしまい、嫌われてしまわないかと怖がって潤む大きな瞳。

 従妹という倫理観が瓦解しそうになるのをなけなしの理性で縛り付けるのが精いっぱいだった。

「ぐ、ぅ……俺もやりたい」

「ほんと? やったぁ」

 ぱっと咲いた無垢な笑顔に、理性が悲鳴を上げる。

「にーちゃん、大好きっ」

「あ゜」


 完全に理性がなくなる前に気絶を選んだ俺を、俺は褒めちぎりたい。

「おはよ、にーちゃん。……朝も歯磨き……いい?」

 もうこれ以上はダメかもしれない。

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