お題:水槽

「おはよう。今日は気温がまた下がるんだってさ。三寒四温も程々にしろって感じだよな」

 カーテンを開けると、冷たい陽光がガラスの硬さと水の青を照らし出す。部屋の半分を占める水槽の中で、彼女は眠たそうに伸びをしていた。

 彼女は、去年までは何の変哲もない高校生の少女だった。毎日が楽しそうで、いつも快活で……俺にはもったいない恋人だった。

 だが、彼女を悲劇が襲った。修学旅行の船旅中、船が沈没したのだ。救命ボートを出す時間すらなく、乗客乗員は『全員死亡』と報道された。テレビでは連日、学生の家族たちが泣き暮れる姿が報道され続けた。

 そう。全員死んだのだ。俺と彼女以外は。

 水面が遠のく中、俺は彼女の無事を祈りながら溺れ、意識を失った。

 そして、次に目覚めたとき、俺の目に飛び込んできたのは壁一面の水槽の中で眠る彼女の姿だった。横腹には魚のエラがあった。

 話を聞くに、本人にも何が起こったのかはわからないのだという。水中で呼吸ができるとわかり、必死で俺を助け、そのまま研究施設のような場所へ来たらしい。

 安っぽいSFだと思った。だが、疑いようもない現実だけがそこにあった。もう俺は、ガラス越しにしか彼女を見られないのだ。

 そこから、何をしたかは省こう。

 端的に言えば、俺と彼女は自殺まがいの行動を起こして無理やりな交渉を行い、彼女の研究を行う代わりに二人で暮らさせることを容認させたわけだ。

「朝メシだな」

 俺がそう言うと、彼女は嬉しそうに頷く。声は届かないが、お互いに表情や仕草でだいたいの感情を読み取れるようになってきた。

 朝の体操で彼女が軽く水を泳ぐと、短く切った髪がクラゲのように揺れる。俺は今日も安堵して、備え付けの梯子を登る。水槽の上で手を鳴らすと、まるで水族館のイルカのように彼女が顔を出す。

「調子の悪いところはないか?」

 食事を与えながら尋ねると、彼女は首を横に振る。エラを得た代償なのか、彼女は声を失った。内臓も人間の構造から変化しつつあるらしい。

 細い腕を取る。水に濡れた肌には、うっすらと鱗が形成されていた。

「あたりまえだけど……変わっていくんだな」

 彼女は日を重ねるごとに人間から遠ざかっていく。指の間には水かきのような膜が作られ、腹部からでき始めた鱗もいまでは全身に広がっている。

 そして、数日前。彼女は文字を忘れ始めた。

 確実に終わりが来ている。それが寿命なのか、人間性の消失なのかはわからない。

「怖いな……」

 このまま変わり果てたとして、俺は彼女を愛せるのだろうか。

 文字を忘れ、いつか記憶がなくなったとして……彼女は俺を愛してくれるのだろうか。

 毎日、恐怖ばかりが増していく。

 その不安を感じ取ったのか、彼女は俺の手を握った。

 大丈夫、と聞こえた気がした。

 何度も俺を救ってくれた魔法。人間に向いてない性格で、毎日のように漠然とした死を望んで、本当に死ぬ勇気もないような俺を助けてくれた、変わらない笑顔。

「……そうだな。ありがとう」

 俺は水に飛び込んだ。

 酸素なんてどうでもよくなるほど、彼女が愛おしかった。

 水中で抱きしめ合う。彼女は艶めかしいほどに冷たい。人だった頃の体温はどこにもない。

 なのに、笑えた。いつか来る終わりなんて、関係ない。

 俺はこの笑顔がなければ。きみがいなければ、生きていられない。

 終わりを迎えるように、永遠を誓う。

 水槽の中と外。共に生きることはできない。

 一度死んだ俺たちだ。

 二度目の終わりぐらいは、幸せになりたい。


 願うなら、水槽の中で。

 悼むなら、水槽の外で。

 終わるなら、同じ場所で。

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