お題:信号

「ぐぁー……眠い」

 大きくあくびをすると、古びた灯台の潮風と埃が混じった空気が鼻についた。ズキズキする頭を撫でつけながら真っ暗な螺旋階段を上がる。月も見えない夜で、頼りになるのは懐中電灯ひとつ。

 踏んだ段数が増えるにつれて、波の音は遠くなっていく。耳が痛くなるほど静かな夜にも、少しは慣れてきた今日この頃だ。

 最上階に着き、だいぶ前に持ち込んだパイプ椅子に座る。誰もいない灯台に残されているのは、化石のような電鍵だけだ。

 電鍵というのは、無線電信だ。モールス信号なんかを打鍵するあの機械のことである。

「今日はどうかね」

 試しに、お決まりのリズムで信号を打つ。

 別に俺はアマチュア無線の資格なんて持っていない。元軍人の爺さまにモールス信号を仕込まれたから打電できるが、そもそもモールス信号の送受信ができる機器なんてとっくの昔に製造が止まってる。昔は灯台と漁船なんかで通信してたらしいが、いまじゃ音声が基本だ。更に、この辺りは船の航行ルートから外れてるから、この信号を受け取る相手なんていない。いないはずなのだ。

「……来た」

 なのに、こうして俺に返答する相手が存在している。

『コンニチハ』

「何か変わったことは、っと」

『ヒマダヨ。ソッチハ』

 最初は軍人の亡霊かと思ったが、話せば話すほどコイツは俗っぽい人間ってことがわかった。未だに素性は一切不明だが、こうして化石めいた機材でとりとめもない会話をするのがなんとなくアングラっぽくて楽しくなり、週一回の打電による逢瀬がこうして続いてるわけだ。

「好きなバンドが新曲出した」

『ウタハスキ。ワタシ、ジョウズニウタウ』

「いつか聴いてみたいな、そりゃ」

『ワタシモ、キカセタイ』

 前のめりな反応に、俺は少し浮足立つ。顔を合わせるような話題はにべもなく霧捨ててしまう普段とは違う反応だった。

「聴かせてくれ、なんて」

 そう打電してから、しばらく待っても返答がなかった。

 距離を詰めすぎたかと思い、謝罪の文章を考えていたときだった。

「波の音……?」

 それは、聖典の砂浜に辿り着く、囁きのようなさざ波だった。灯台になんて届くはずもない、とても静かで優しい音だ。

 不思議と、疑問よりも先に俺が覚えたのは安らぎだった。

 しばらくその音に聞き惚れていると、耳に入ったのは短い打電だった。

『マタネ』

「おわっ……ま、またな、っと」

 気付けば、空は白んでいた。ずいぶんと長い時間が過ぎている。どっかで居眠りしていたのかもしれない。

 灯台を降りると、朝と夜の境界線が見えた。白む空と黒い海。潮騒が聴こえる。さっきのさざ波はどこにもいなかった。

「……まさかね」

 背を向けた。

 手を振るようにさざ波が聴こえた気がした。

「……まさかね」

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