お題:海

 グランブルーという言葉を知っているだろうか。

 フランス語で「雄大な青」を意味する言葉であり、同時に海の深くに潜ったときにだけ見られる透き通った『青』を示す言葉でもある。

 子どもの頃、海で溺れたときにその色を見たことがある。あまりに綺麗で、このまま沈んでもいいとまで思えた。そこからだろう。俺がずっと『青』に憑りつかれたのは。

 家の裏はすぐ海岸になっている。観光客なんて来ない岩礁だから、散歩しているのすら俺一人だ。そして夕暮れになると、決まって俺は海に入る。水着も着ないし、準備体操もしない。冬だってお構いなしだ。

 俺は別にダイバーじゃない。プールじゃなければクロールだって満足にできないド素人だ。事実、毎日だって波に攫われ、溺れそうになっている。なのに毎日、幸運にも岩礁へ戻り、また毎日、入水自殺未遂を繰り返す。

 その理由は、ただひとつ。『青』を見たいのだ。

「――……今日も、ダメか?」

 問いが夜空とさざ波の間に溶けていく。星も見えない、途方もなく暗い夜だった。『そいつ』は波間から顔を出すと、小さく頷いた。

『――――』

 声とも、音とも言い難い何かが耳に残る。『そいつ』の姿かたちは人間の少女に近いが、海に棲んでいる時点で人間でないのは明らかだ。『そいつ』の肌は青白く、半透明でゼラチン質のドレスをまとっている。だから、俺は『そいつ』をクラゲの姫と呼んでいる。

 何者なのか、そもそも生物なのかどうかすら、俺は一切知らない。クラゲの姫が俺にだけ見える幻覚の可能性だって否めない。ただ確実なのは、クラゲの姫が俺を助けるおかげで海から生還できているということだ。

「……なぁ、言葉が通じるのかは知らねぇけどさ。いいだろ。俺はあの青を見れりゃ、死ねたっていいんだ。俺が死んだら食い潰してくれていいからさ」

『――、――――』

 クラゲの姫は顔を横に振る。その声に宿っているものが哀しみなのか怒りなのかは判断できない。なのに不思議だ。こっちをじっと見つめる灰色の双眸に、慈愛と絶望があるように感じる。まるで、自傷する恋人を前に立ち竦んでいるようだった。

「はぁ……こんな勘違いが頭に出るなんて、俺もどっかで人恋しいのかね。家族もいねぇし、とっくに人生終わってるのに」

『――、――』

「……なぁ、姫さま。俺が海で死ぬのが、そんなに嫌か?」

 クラゲの姫は大きく頷いた。

「じゃあ、さ。俺を連れて行ってくれよ」

 どこへ?

 どこへでもいい。

「淋しいんだ。あの『青』だけが、心残りなんだ」

『――』

「頼むよ」

 縋るように、手を伸ばした。

「救ってくれ」


『――――』


 ああ、やっぱり、クラゲみたいだな。

 クラゲの姫は俺を抱きしめた。ゼラチンの少し反発するような柔らかさが体を包む。青白い手で俺の頬を撫でた。海底のような冷たさだった。

 クラゲの姫はそれ以上何もせず、ただひたすらに俺を抱きしめ、頭を撫でた。

 やがて、クラゲの姫はまた海へ消えて行った。朝日と共に残るのは、岩礁の波音とずぶ濡れの男一人。頬に残る冷たさだけが、幻想のような暗夜の残滓だった。

 俺はまた、海に入る。

 悲しいな、クラゲの姫。お前はきっと俺に生きてほしいと言うんだろう。

 その優しさに触れるたび、俺はお前の腕で死にたくなるんだ。

 冷たい海の底で。あの美しい『青』の中で。

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