ダブルミーニング

西野 夏葉

第1話でおわるよ。

「おれ、昔から親に、毎日を”今日は特別な日だ”、と思って生きろって言われてきたんだけど、その意味ってなんだと思う?」



 大学の同級生である伊藤研介いとうけんすけが、そんなふうに、あたし―小森聖美こもりさとみ―に話しかけてきたのは、ある日の飲み会の、二次会での出来事だった。


 二次会なんて言ったって、いるのはあたしと伊藤だけだ。もともとあたしのサークルで飲み会が開かれること自体が稀有けうな出来事だし、みんな最初だけ付き合い程度にビールを傾ける程度で、いつまで経ってもソフトドリンクの類を口にしないのは、あたしと伊藤くらいなものだった。



 伊藤は、入学当初から別にかっこよくもなかったし、成績がいいわけでもない。むしろ、お互い三年生に進級してからもなお、あたしによく一般教養のノートをせびってくる部類の人間である。

 それでもあたしが伊藤としょっちゅうつるんでいるのは、単純にウマが合うということの他にも、なんとなく、何か別の要因がある気がしていた。まだその答えは見つけられていない気がする。



 あたしは、伊藤の言葉の意味を一瞬だけ咀嚼そしゃくしたけれど、結果的には「知らない」と、さじを投げた。



「なんだよ、つれない奴だな」



 ふくれっ面になって、目の前の芋焼酎ロックをあおった伊藤を冷ややかに眺めながら、あたしはもう一球だけ、ボールを投げてやった。



「強いて言うなら、世の中には生きたくても生きられない人だっているんだから、命を無駄にするな……ってことなんじゃないの」

「なんだそれ。まるで安っぽいJポップの歌詞じゃないか」

「そんな文句を言うくらいなら、あたしに頼るな」

「悪い悪い」



 ヘラヘラと笑う伊藤の頬は、昔に観ていたアニメのキャラみたいに、ぽっと赤く染まっていた。伊藤は酒を飲むのが好きなようだが、特別強いわけでもなかった。そういう意味では、とりたてて何がひっかかるわけでもない男だ。何か特別に光るものがあるわけでもなく、かと言って、特に他人に比べて劣る部分もない。

 それは伊藤にとって、幸運なことであるのかもしれない。何しろ、他人より大きく劣る部分がないということは、集団の中にいても変に目立たなくて、それはそれでよい気がした。



 いくら勉強ができても、顔やファッションや身だしなみ、清潔さに欠ける人間はごまんといる。逆も然り。よく、少女漫画などで「生徒会長で、容姿端麗、頭脳明晰、運動神経抜群、恋人なし」みたいな人物設定があるけれど、一体いくら課金して何度ガチャを引けば、そんなチートみたいなスペックが手に入るというのか、問い詰めてやりたくもなる。少なくともあたしがこれまで見てきた人物の中で、生徒会長はいても、その他の要素を全て兼ね備えた人物など、見たことがないのだ。



 そういう意味では、伊藤みたいな人畜無害な人物こそ、実は特別な存在なのかもしれない……と考えていると、伊藤が「でもさ」と口を開いたので、あたしは現世に意識を戻した。



「そもそも、何をもって特別とするかは、人それぞれじゃん」

「そうだけど」

「たとえば、本当の金持ちは、その日にいきなり百万円がポンと手に入っても、ピクリとも眉を動かさないだろ」

「あたしたちみたいな庶民なら、よだれをたらして喜ぶね」



「そうだろう」と答えた伊藤は、なぜか満足げだった。見たことか、人がゴミのようだ……とでも言いたげな表情だ。

 それは構わないけど、あんたもその醜く欲深い庶民の一人なんじゃないの。あたしのそんな思いをよそに、伊藤はさらに続けた。



「価値尺度もみんなバラバラだ。死刑執行日を知らされない死刑囚にとっては、刑務官がぞろぞろとやってこない日は『今日も生きられる』って思うっていうし、それもそれで特別だ」

「まあね」



 まるですべてを自分の目で見て、耳で聞いてきたように言うところはなんだかしゃくさわるけれど、大筋は特に間違ったことを言っているようには思えなかった。慢性的に金のないあたしが、帰り道にあるマクドナルドで、クーポンで値引きされたポテトLをむさぼる日に幸福感を感じるのと、似たようなものだと思ったからである。



 だからこそ「でもさ」と、あたしはさらなる疑問を投げかけてみた。



「じゃあ、伊藤にとっては、どんな日が特別なの」

「うん? そうだなあ……」



 伊藤は、しばしあごに手をやって考え込む仕草をみせた。ここから、また立て板に水を流したみたいな言葉の洪水が押し寄せてくるのだろう……と思っていたあたしの想像は、伊藤の「そう考えると、思い浮かばねえな」という言葉に、あっけなく打ち砕かれた。



「は?」

「だって、俺にとって特別なことって何かって思ったら、なんも思い浮かばないんだよ、これがさ」

「何かあるでしょ。小テストの出来がよかったとか、学食のカレーの具がちょっと多かったとか」

「なんか、小森って、特別の度合いが小せえな」



 伊藤は、ぷっ、と吹き出しながら、そんな言葉を浴びせてきた。

 いや、悪かった。確かにあたしの例えは悪かった。けれど、そんな嘲笑ちょうしょうするようなことまで言わなくたっていいじゃないか。最初は伊藤の問いかけに気の利いた返答をしてやろうと思っていたのに、何故、いつのまにかあたしの価値観の安っぽさに言及されているのか、見当がつかない。

 さすがのあたしもふくれっ面になるというものだ。



「うるさいわよ。……それよりあたしの言ったことに対して、小さいって文句をつけるってことは、やっぱり何か思うところがあるんじゃないの」

「んー、まあ、ある……かもしんない」

「はっきりしなさいよ」



 あたしの語気が強くなったからか、あるいは酒が回ったからか、伊藤は若干、目を充血させて、きょろきょろとさせていた。


 伊藤以外に、あたしはこういう目の動かし方をしている人間を何度か見たことがある。高校生の時に、校内でも一、二を争う怖い教師の授業の宿題を忘れたクラスメイトが、忘れたことの言い訳をするときにこんな目をしていた。別に怒るなとまで言わないけれど、教卓のすぐ斜め前に席があるあたしの迷惑も少しは考えていただきたかった。ちゃんと宿題をやってきたのに、なんだかあたしまで怒られている気がして、なんとなくうんざりした記憶が、大学三年生になった今も、あたしの中に生々しく跡を残している。



 「まあ、なんてえか」



 もういっぺんくらい叱り飛ばしてやろうと思った矢先、伊藤は酒臭い息混じりに、言葉を零してきた。



「なによ」

「こういう時間がある日は、特別だな」

「え?」



 ここでいう「こういう」が指すものが、いま、あたしと過ごしている時間を指している言葉なのだということは想像できたが、敢えてそれは深く考えないことにした。

 けれども、伊藤の言葉は、あたしが波打ち際の砂の深くに埋めたそれを、いとも簡単にほじくり返した。



「……小森と喋れた日は、なんとなくいいことあったな、と思い返す日になるよ」



 あーあー、うるさいうるさいうるさい。

 足にペンを挟んで書いた小説みたいなことを言うな。



 いつも、他人より少し反応が鈍いあたしにしては、かなり早く、頭の中でそんな言葉をノンブレスで呟いていた。

 それにしたって、どうせ人を馬鹿にするのなら、もう少しきざったらしい台詞を吐いてほしい。

 ほんの少しだけ現実味を帯びた冗談なんて、ある意味で一番残酷なことなのだから。

 それは男だろうが女だろうが、同じことだと思う。



「それって、どこがどう、いいことなわけ」



 あたしの声は、びっくりするほどひび割れていた。さすがに一人で四時間カラオケをした時はこんな感じの声になったけれど、多分それ以来だ。喉を酷使したわけでもないのに。



 なんだその声、村の長老のばばあかよ……と笑い飛ばしたあとで、静かに伊藤は呟いた。



「それを口にしたら、小森にとっても、今日が特別な日になるのかな」



 あー、うっさい。伊藤の分際で、何をかっこつけてんのよ。

 特別な日? どういうこと。人によって何が特別にあたるかなんて違う、って言ってたのはさっきまでのあんたでしょ。



 じゃあ、あたしにとっての「特別な日」の定義って?




「……内容を聞かない限り、確約はしない」




 あたしが絞り出したのは、こんな苦し紛れの返答だった。けれど、これはこれで本当の事だ。

 人間の勝手な思い込みの力というのは、恐ろしい。思い込みだけでとても恥ずかしいことになったり、あるいは勢い余って人を殺めてしまうことだってあるのだ。そう、あたしは冷静に、事の詳細を確かめようと思っているだけだ。





「なら、聞いて考えてくれ」



 さっきまで気のいい酔っ払いの様相を呈していた伊藤は、ほんの少しだけ頬が赤く、あたしのところに届いてきた吐息から酒のにおいがした以外は、いつもの伊藤だった。



 たまに肩を並べて講義を受けて、普段のおちゃらけた様子が嘘のように、澄ました顔でルーズリーフにシャープペンを走らせる、あの伊藤だった。



 そう、あたしがいくら講義に集中しようと思っても、そのたびにあたしの目線を目の前の黒板から引き剥がす、伊藤のすがただ。





 いま、伊藤の瞳は、まっさらなルーズリーフではなく、あたしの方を真っ直ぐに、射抜くように見つめている。




 伊藤は少しだけ、すっ、と息を吸ってから、言った。





「きっと、小森にとっても、今日が特別な日になるはずだから」




 うん。何度カレンダーを取り換えても、思い出す日になるんだろうな。



 伊藤の言葉を待ちながら、あたしはそう悟った。




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