顔のない民

淡風

顔のない民

 一


 頃は雪の溶ける黄昏、生きとし生けるものはその棲家に帰らんとする。思えば帰路は自ずと早足になるものだ。月が出てはもうおしまい、下弦の月はここしばらく顔を出す瞬間を見損ない、段々と夜深くに空に現れるようになった。日の出らん夜の世界の覇者として地を照らす光となり、そうして往々にして我々は人間を狼と見間違い、ムジナに化かされ、まるで不知のうちに浮世離れし眠りについたような錯覚を覚える。

 けれどもそれらは全て見えることであり、さらには全体が他のものにというだけのこと、さてここにおはしまするは一尾の黒猫、正真正銘の一匹、それが化け猫に錯覚するのは猫そのものが実体としてあるからであり、結局二匹にみられることはない。逆に尾の無い大福にも見えはしまい。

 だが。


 今眼下にひしめいているのは顔のない民である。


 二


 いつか噂に聞いたことがある。パラレルワァルドにいる人間は、必ずしも姿形自らに似ると言えない。あくまで似るのは力学的な力量であり、例えば一つのラムネ玉が坂道を転がるのと同じで、それが例えパチンコ玉であったとて、何かしらちりでもついていれば重さは等しくーーよって、その二つはパラレルワァルドではなく同一世界に起こり得ることなのだ。片方が若干横道に逸れれば、双方立派なパラレルワァルドの完成である。

 そして、そのパラレルワァルドの住民こそ、顔のない民として我々が非常に恐るるものなのだ。

 顔のない民を恐るるわけは、学者によって見解は異なる。それは単なる生理的恐怖心からによるものというものもあれば、自身と相似つかないものが自分そのものであるというパラドクス、あるいはその歪さは自然美にそぐわないとしたのは六十過ぎまで日の光を浴びなかった無名のストリートアーティストであったか、もしくは、エトセトラ、エトセトラ。

 けれど誰もが口を揃えて云う、顔のない民には近づくな。


 三


 「おい」

 あらかじめ取っておいたかのように言葉はすぐに出た。新鮮な言葉は新鮮な民に届く。時差はほぼない。ぞわぞわぞわ、と民はこちらを向く。一斉に。そしてその中の年少と思しきものが、

 「何か」

 その声の透き通りように吃驚しながら(と云うのも風の窓を抜けるひゅうひゅうとした声と思いこんでいたのだ)、「なぜここにいるのだ?」と、どちらがパラレルワァルドに迷い込んだのか断言しない疑問形を問いかけた。

 「ここにいる」民は一斉に繰り返す。「ここにいる、ここにいる…」

 それは雨の中を波のように遠くまでゆらぐ。のたりくたり、ただ間違いなく夜の底を揺らす強さだ。しばらくそうしたのち、

 「そう。間違いない、ここにいる」と口々にしたあと、ぴたりと音は止んだ。魚の群れは自らの住処へと戻り、眠りにつく。

 「ここは居るための世界。そしてあなたも」そして民の一人が水溜りを指す。魚たちは眠っている。それを覗いてーーやはり顔がない。わたしの、だ。わたしは顔のない民ではない。しかしどこにもない。眼球のない民ではない。見えている。たしかに見えている。映るべきものがどこにもない。首より上は暗黒が広がる。魚が起き出す。一斉に海藻を吐き出し、懸命に過去を戻そうとする。しかし溶けた食物は反吐になるばかりで、水を濁すばかり、もとの藻にはなれまい。

 「それが いま そこに」奇妙な旋律に乗せて顔のない民は歌う。笑うように歌う。決して嗤ってはいないのだ、その証拠にこの歌はどこか古里を思い起こさせる。ああ、それが答えだと今、知る。


 四


 帰路はしばらく続き、民の歌声は次第に打ち上げられた波のように白く夜を照らして消えた。

 「あら」扉を開けた途端に妻の声がした。「いいじゃない。それ」

 「そうかな」

 「そうよ」

 二人同じ高さで寄り添ったことなど、いつぶりだったろうか。顔のない民の歌声は、いずれ讃美歌となり夜耽るまで静寂に近しく続いた。


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顔のない民 淡風 @AwayukiP

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