628 人事を動かす

 ボルトン伯のサルンアフィア学園長とノルデン国立学院長、新設された教育監部の総監という三職就任。統帥府軍監ドーベルウィン伯の御親軍大総督の兼任。そして剣聖スピアリット子爵の教導団長と軍官学校校長の就任と、矢継ぎ早に行われるノルデン王国の組織改組と人事。これにまた一つ、驚くべき人事が発表された。


「エルベール公、貴族法院の院長に任じられる」


 これを伝えた『小箱の放置ホイポイカプセル』と『蝦蟇がま口財布』の記事を総合すれば、王国からの追証請求に伴い、多くの貴族が爵位の返上や褫奪ちだつによって奪爵された為、各家に対する審査等の事務処理が大幅に増える事が見込まれる。これを円滑に処置するべく新たに貴族法院が設置。その院長にエルベール公が推されたと。


 元公爵アウストラリスが失脚した今、貴族派唯一の巨頭であり、ノルデンにおいて最も古い公爵家であるエルベール公爵家ならば、公平公正な貴族への裁定が行われるであろうという国王陛下の御宸慮ごしんりょであると伝えられている。今後、貴族に対する様々な通知は、この貴族法院を通じで行われるとの事。


 貴族の最高権威か・・・・・ 確かに文字面はいいだろう。いいだろうが、これって単に貴族の不満に対する弾除けにしか過ぎないのではないか。というのも爵位を返上した者や褫奪された元貴族に対する対処というのは、嫌がられる通知しか行われないのは間違いない。それを国王名ではなく、エルベール公名義で行うだけではないのか?


 今後、そうした元貴族達。あるいはその元貴族達と縁のある貴族へどのような処置が行われるかは不明だが、決して喜ばれるものではないだろう。どうしてそんな仕事をエルベール公が受けたのか。その意図は全く分からない。しかし何となく思うのは、乗せられてしまったからではないかという事。というのも、俺のエルベール公の印象は、非常に軽い人物。


 思い起こせばミカエルのリッチェル子爵位の襲爵に際し、襲爵式に列したエルベール公は、クリスに乗せられて『常在戦場』の宰相府への臣従を提唱した。あれにはビックリしたものである。いくらクリスが宰相家の御令嬢とは言っても、学園生という小娘。その小娘に公爵という大身が、いとも簡単にヒョイっと乗せられたのだから。


 最近では貴族会議の建議を巡る攻防の中、これに賛成するシュミット伯と反対するアルヒデーゼ伯との間で揺れるエルベール派において、イニシアチブを取る訳でもなく、ただ傍観するのみ。最終的に勢いがあったアルヒデーゼ伯の側、即ち建議反対に回り、これが最終的にエルベール派内での流れを決定付けるものとなったにはなった。


 確かにエルベール公が決めたのだが、派閥領袖としての振る舞いとして、それはどうなのだという疑問が残る立ち回り。要は美味しい所だけを取りたいというのが、エルベール公の首尾一貫とした姿勢。今回の貴族法院の院長という役の受諾も、上から美味しい餌が垂らされて、パクリと食らいついたという印象である。


 ただ、難しいのはエルベール公が無知で粗野、傲慢な人物かと言えばそうではない。寧ろ逆で知識と教養、分別を持っているのだから、困ったものである。つまり、その人物の立ち振る舞いと能力や知識、性格等は必ずしも一致しないのが、エルベール公を見ればよく分かる。王国が組織改組と人事で大きく変わる中、『蝦蟇口財布』に小さな記事が載っていた。


「ノルデン報知結社、競売される見通し」


 元伯爵イゼーナ家が所有していたが、王国に接収されて管理下に置かれているノルデン報知結社が、競売に掛けられる事が決まったと伝えている。記事によれば一社丸ごとの売却ではなく、部門別の売却であるとの事。また建物等の資産については引き続き王国の管理下に置かれるという。つまりメディアのみが分割売却されるのである。


 売却されるのは専門書、大衆書の書籍部門。『第七文明』、『照明』、『嵐』、『キャロット』、『大彼岸花』、『グラフノルデン』、そして『翻訳蒟蒻こんにゃく』の雑誌部門。合わせて九つに分割され、それぞれが競売に掛けられるとの事。競合四社は、どの書籍部門、どの雑誌部門を競り落とすのかの検討に入っているだろう。


 また王宮や宮内府、宰相府や統帥府といった官庁が出す通達等を知らせる「ノルデン報知」に関しては、新たに内大臣府に「官報部」が置かれ、そこで出版配布される事が決まった。不動産や通達告知等、王国として必要最小限の部分だけを取り、後は売ってカネにするという方針のようだ。事実上、ノルデン報知結社は解体の憂き目を見たのである。


 そんな俺にも吉報がやってきた。昼休み、トーマスに呼び止められたのである。クリスの元に王宮から書簡が届き、王宮図書館の閲覧日程が伝えられたのだ。それによると来週の平日二日目。前日の夜に打ち合わせをしようと会食に誘われたので、了解したのは言うまでもない。心沸き立つとは、まさにこの事だろう。ピアノの指の滑りも軽やかだ。


 門外不出にして秘伝の書であるサルンアフィアの魔導書には、どんな日本語が書かれているのだろうか。どストレートに現実世界の帰り方が書いてあるかもと考えるだけでも楽しくなるじゃないか。アイリから何かいい事でもあったのかと聞かれたので、俺は昼間の出来事をそのまま答えた。サルンアフィアの魔導書が見られる、と。


「遂に許可が出されたのね」


「ああ、長かったなぁ」


 国王陛下の謁見から許可の伝達、そして閲覧日程の通知。実に時間がかかったな。俺はベートーヴェンの交響曲第三番第一楽章を弾いていた。もちろん脳内採譜のインチキ楽譜なので、間違いは多々あるのだが、楽譜そのものがないのでこればかりはしょうがない。ただ、今日の俺は気分が高揚していたので、力押しでも十分に弾けた。


「グレンは楽しみ?」


「ああ。ずっと待ってたからな」


「帰られる方法が書いてあるから?」


 俺の指が凍りついた。アイリからのいきなり過ぎる不意打ちに固まってしまったのだ。


「・・・・・そ、それは書かれているか・・・・・」


「書かれていたら、コーイチさんの世界に帰るの?」


 とにかく目の前の楽譜を凝視した。俺は今、アイリの顔を直視する事なんて出来なかった。一体どうすればいいのか・・・・・


「グレン。ハッキリ言って!」


 強い口調で発するアイリ。声が一オクターブ下がっている。苛立っているのが声質から伝わってきた。ここはもう正直に言うしかなさそうだ。


「帰る。それが俺の目的だから」


「グレン・・・・・」


 誰が何をどう言おうと、俺は現実世界に帰る。帰って佳奈に会うのだ。こちらの世界にやってきた時から、俺の願いは一貫している。身分違いの学園へわざわざ入ったのも帰途への方策を探す為。その一点の為に全てを費やしてきたと言ってもいい。この誓いは絶対に揺るがないし、揺らぐ事はない。向こうの世界には佳奈がいるのだから。


「やっぱり帰るのね・・・・・」


「アイリ・・・・・」


 声が落ち込んでいるのが分かる。本心を吐き出した筈なのに、俺のテンションも一気に下がってしまった。


「そこまでしても、帰りたい?」


「・・・・・ああ」


「どんな事をしても?」


「帰る為に全てを賭けているからな」


 楽譜を見たまま俺は正直に答えた。アイリの事だ。中途半端に取り繕ったって、すぐに見抜かれるに決まっている。普段は何処か抜けていて、カンが鋭い訳でもないのアイリ。しかしこの世界のヒロインだからだろうか、アイリ独特の感性が働いて分かってしまうのだ。ただ正直に話したのだが、それでも今のアイリの顔をどうしても見られない。


「私を置いても・・・・・」


 遂に来てしまった。決定的な言葉が・・・・・ 絶対に答えられないその言葉。置いていくなんて本当の事、言える訳がないじゃないか。ふと昔レティに言われた事を思い出した。アイリと付き合っているのを知ったレティが「アイリスが本気になったらどうするの?」と警告したのを。この事が言いたかったんだな、レティは。


「そうなったとして後悔しない?」


 レティの言葉が俺に重くのしかかる。レティの言葉は正しかった。アイリを置いていったら・・・・・ 本気になっているアイリを残して立ち去ったら・・・・・ それが現実味を帯びてきた今、後悔という言葉が限りなく重く感じられる。これまでの楽しい時間が、アイリを苦しめてしまう現実を直視せざる得ないのだから。


 俺だって軽い気持ちでアイリと付き合っている訳じゃない。純粋にアイリが好きだから付き合っているのだ。ハッキリ言ってしまえば、佳奈の時よりも燃えている部分がある。というのも、佳奈と付き合っていた頃に一緒にいた時間よりも、アイリと一緒にいる時間の方がずっと多いのだから。入れ込む環境は佳奈よりもアイリの方が整っていた。


 それにグイグイと引っ張っていくような感じだった佳奈とは違い、控え目で一歩引いたようなところがあり、どちらかと言えば受け身な感じがするアイリとの付き合いは新鮮だった。何となくだが、佳奈に振り回されっぱなしになっていたのだなって思う時がある。その点アイリなら、じっと辛抱して待っていてくれている。


 だから佳奈にはない安心感があった。なので、俺がアイリのそうした部分を当てにしてしまっていたのは間違いない。なのでアイリと交わした約束。俺が帰るまでのお付き合いという約束も、そのまま守られると思うように出来たのである。だが本気になれば、そんな約束なんて全く無意味だった。感情が理性なんて押し流してしまう。


 だからレティは言ったのだ。「本気になったらどうするの?」って。それだけアイリが俺の事を思っていてくれている。私を取るか、それとも・・・・・ と迫ってきているのはその証左。俺にはそんな事なんて言えなかった。なので黙って第二楽章を弾き始める。この曲はどうして俺の心とシンクロしてしまうのだろうか。アイリは黙って演奏を聴いていた。

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