613 賢明な選択

 今日所領を出ても王都に到着するのに、五日はかかる貴族がいる。しかもそれは高速馬車を使っての話。貴族会議の委任状確認だって早馬を使っての日数で、実際に移動するにはもっと時間がかかる。現に俺が初めて王都に来た際、乗合馬車で一週間かかったのだから。いくら高速馬車が普及したとはいえ、多数は未だ普通の馬車なのだ。


 だから実際に到着するのに最長五日では難しく、それに以上かかる貴族も多いではないかと思う。それにクラウディス=カシューガ子爵の決断の話が地方に拡散していくのには時間がかかる。知った後には期限切れというのが実際のところなのではないか。おそらく所領に残っている貴族達は実質的にアウトと見るべきである


 しかし、そんな俺の心配などとは無縁。全くお構いがないような感じの記事もあった。その記事を載せているのが『翻訳蒟蒻こんにゃく』なのは言うまでもない。「高まる徳政令を求める声。多数の署名集まる!」と題したその記事によれば、ゴデル=ハルゼイ侯ら有力貴族の呼びかけで行われている、徳政令を求める署名が五百家に達した。


 この署名は近く内大臣府に提出される見通しであると書かれている。だが、先週ゴデル=ハルゼイ侯を初めとする有力貴族達は内大臣府に押しかけて、逆に追い出されてしまったのではないか。それなのに徳政令の署名を改めて持っていくなんて、そんな厚かましい事がよく出来るな。大体、そんな状態で内大臣が署名を受け取るとは思えない。


 しかしそれはそうと五百家という数字、例の小麦特別融資を借りた貴族の四割を占めるのではいか。俺はその数に呆れた。というのも国王陛下名義で融資の追証の払いを求める請求が行われ、「爵位の返上と所領の返納を以て免除」という思し召しまで書かれているというのに、それを無視して徳政令を求める署名にサインをした貴族がそれだけいるのだから。


 つまり普段「王国の藩屏はんぺい」と言いながら、何とも思っていない貴族が五百家もあるという事。だって国王からの思し召しなど無視をして借金を免責するよう、その国王自身に強訴しているのと同じである事に、どうして誰も気付かないのかが不思議で仕方がない。こんな署名を提出なぞしたら「これが造反者リストです」と自ら渡しに行くようなもの。


 まして宰相閣下の親族であるクラウディス=カシューガ子爵が「思し召し」を受け入れて、爵位の返上と所領の返納の意思を示している今の状況。署名を集めるのも、署名をするのも、提出するのも最悪手だ。何故なら恭順をする前者と反抗する後者の濃淡がハッキリするからである。これでは徳政令などを勝ち取る事なぞ先ず不可能。


 強訴みたいなものは、相手が「これは聞かないといけない」と思ってもらわないと成立しない。せめて全貴族の半数以上の署名ぐらいなければ、そう思わないのではないか。全貴族の七分の一程度では迫力に欠ける。まぁ貴族達の動向について、俺がアレコレ言える立場ではない。出来る事は生温かく見守るぐらいなものであろう。


 俺は遠巻きに見ればいいだけだが、貴族家の者にとってはそうはいかない。何かのファンである人とそうでない人との差と同じようなもの。人間誰しも自分達の世界で今何が起こっているかが重要になるのは仕方がない話。それは安全な立ち位置にいる者であっても同じこと。放課後、久しぶりに図書館へやってきたレティがまさにそれ。


「ゴデル=ハルゼイ侯達が集めた署名、突っ返されたらしいわよ」


「これから署名を提出するんじゃなかったのか?」


「『翻訳蒟蒻』の記事? あれ、もう遅いわよ。前から集めていた署名がやっと五百になったから、それを提出しようと内大臣府へ押しかけたんだけど、追い返されたんだって」


 そうか! 先週ハンナから聞いたゴデル=ハルゼイ侯らが内大臣府へ押しかけたあの一件が、徳政令を求める署名提出の話だったのか! 話が出てくるのがバラバラな上に遅すぎて、情報のラグで見誤っていたよ。レティの話を聞いて、ようやく繋がった。つまり以前から集めていた徳政令の署名を先週末に提出しようとして、断られたんだな。


「また、提出しに行くのかな?」


「行ってどうするのよ。宰相閣下の御親族まで爵位の返上をなされるのに、署名集めをしても徳政令なんて出る訳がないでしょ」


 レティはそう断言した。その見立ては正しい。だが、ゴデル=ハルゼイ侯ら署名集めに勤しんだ有力貴族達がそれに気付くのかどうか。いや、気付いたとしても、今更後戻りは出来ないか。今、彼らに残された選択肢は二つ。カネを払うか、貴族を辞めるか。カネが払えなければ貴族を辞めるしかないのだが・・・・・


 それが嫌だから、借金の棒引きを求めて徳政令にしがみついているのだろう。「カネも払えぬが、貴族は辞めたくない」と言ったところか。しかしそんな身勝手で我儘な話、通る筈がない。しかしそれがエレノ世界においては通ってきた主張だったから、貴族達はそう訴えているのである。そんな話を横で聞いていたアイリが言ってきた。


「クリスティーナはやっと説得できたのですね」


「ああ、そうだ。明日には帰ってくるらしい」


 俺がそう言うと、アイリが嬉しそうな顔をしている。クリスにクラウディス=カシューガ子爵ら小麦特別融資の追証を受けた親族陪臣達に、家財の売却話を持ちかけたのは他ならぬアイリ。それが上手く行ったので喜んでいるのだ。今日の昼、トーマスの持つ魔装具から連絡があったのだが、話してきたのはクリス。俺はクリスから直接聞いたのである。


 この前のハンナといい、元の持ち主とは違う声で話されたらこちらの方が困る。グレックナーだと思って出たらハンナ、トーマスだと思って出たらクリス。現実世界のようにこっちの魔装具も一人一台にすべきだだろう。それはそうと、レティは何処で署名話を耳にしたのだろうか? 俺はレティにその事について聞いてみた。


「アルヒデーゼ伯よ」


 そうか。アルヒデーゼ伯だったか。休日にエルダース伯爵夫人と共に会ったそうで、その時に教えてもらったそうだ。アルヒデーゼ伯がこの一件の詳細を知ったのは、署名をした貴族マーベスク子爵からの話。マーベスク子爵はゴデル=ハルゼイ侯と共に内大臣府に訪れて、追い返されてしまったそうである。それでアルヒデーゼ伯に相談しに来たらしい。


「それまでシュミット伯に相談していたけれど、内大臣府から追い返されて無理だと思ったそうよ」


 シュミット伯は貴族会議の開催に賛成した、レティの家であるリッチェル子爵家も属するエルベール派の幹部貴族。同じ派閥のアルヒデーゼ伯とはライバル関係にある高位伯爵家ルボターナ。マーベスク子爵は請求書に書かれていた文言も徳政令が出されるとひっくり返るという、シュミット伯の言葉を信じて行動を共にしてきたそうである。


「マーベスク子爵は爵位の返上をアルヒデーゼ伯に相談したそうなのよ」


「じゃあ、決断したのだな」


「ええ。それが一番マシな選択だって」


 アルヒデーゼ伯に促されたマーベスク子爵はその日の内に腹を決め、アルヒデーゼ伯に付き添われる形で、陪臣と共に今日にも内大臣府に爵位の返上と所領の返納を申し入れる手筈になっているとの事。当初腹を決めたマーベスク子爵が、署名するよう自身が呼びかけた貴族にも声を掛けようとしたが、アルヒデーゼ伯が止めたという。


「声を掛けた貴族から話が洩れて、シュミット伯に知られてしまうって、仰られていたわ」


「マーベスク子爵の決断が意味を成さなくなってしまうな、それでは」


「そう。だからまず爵位の返上を申し入れてから、声をかければいいって」


 このアルヒデーゼ伯の判断は正しい。出していない段階であれば、全力で引き留めにかかってくるのは目に見えている。だが申し入れた後なら、引き留められる事はない。既に申し入れしてしまっているので、引き留めようもないのだから。罵詈雑言は浴びせつけられる可能性はあるが、それ以上はない。このアルヒデーゼ伯のアドバイス、実に的確だ。


「そこでお願いなんだけど・・・・・」


「家財だろ」


「カンが良いわねぇ」


 レティが笑った。アイリの微笑みとは全く違う、打算に満ち溢れた笑み。レティはアルヒデーゼ伯と話をする中で、マーベスク子爵とその陪臣の家財一切の売り払いの仲介を請け負ってきたのである。勿論、請け負うのはウチアルフォードなのだが。もう貴族の娘なんか辞めて、リサのように商人の娘にでもなった方がいいんじゃないのか。


「アルヒデーゼ伯が喜んでおられたわよ」


「何がだ?」


 俺は一瞬、身構えた。今度は何なのか。するとレティが意外な話を言ってきた。


「襲撃を受けて大きな怪我を負ったのに、合奏の話を覚えてくれて、って」


 ああ、その話か! 俺は安堵した。一瞬、とんでもないものを振られるかと思ったのである。レティが持ってくる話は気を付けないと、何があるか分からない。宝箱だと思って開けたら、それはミミックだったみたいなノリが、レティにはある。ヒロインとはいえ、ゲーム世界らしいキャラ設定でもあるのだが、リアルでやられると正直困る。


「今は慌ただしいが、是非にもお願いしたいって」


 俺が出席できない事も了解してくれたという。ここらの話まで詰めて来る辺り、流石レティだな。日程や場所については追って調整という事で、確認が出来た。アルヒデーゼ伯とのやり取りはレティに任せて、俺の方はニュース・ラインとしっかりと打ち合わせをして詰めながら、鼓笛隊の準備を進めておいた方がいいだろう。


 それはそうと翌日、クリスが公爵邸から帰ってきたので、爵位の返上を決めたというクラウディス=カシューガ子爵の話をアイリやレティを交えて聞く事が出来た。場所はロタスティの個室。皆でコース料理を食べるのも久しぶりだ。しかし、今日も個室を借りているのは俺達だけ。これだけでも、小麦マネーが学園にまで入り込んでいたのか良く分かる。

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