550 二律背反

 クリスが学園に帰ってくる。クリスと共にノルト=クラウディス公爵邸に帰っているトーマスからの知らせを聞いた俺は、テンションが上った。魔装具越しに「クリスの体調も戻ったのか!」と尋ねると、トーマスが「まぁ・・・・・ なんとか・・・・・」と元気なく返してくる。


 まだクリスの体調は、万全じゃないのか。やはり襲撃事件と貴族会議の開催の衝撃から、未だ立ち直れてはいないようである。まぁ、簡単に立ち直られるような話ではないのだが・・・・・ 俺はもう少し公爵邸で静養した方がいいのではないかと言うと、それが出来ないんだとトーマスが話す。


「お嬢様がお前と会いたいって・・・・・」


 俺と会う為だけに学園へ戻ってくるのか・・・・・ いいのか、それで。嬉しいような、困ったような、何か複雑な気分だ。俺とトーマスのやり取りを横で聞いていたアイリが「クリスティーナが帰ってくるの?」と喜んでいる。その上「変わって変わって」と、いつも控え目なアイリが、自分から魔装具をねだってきたのだ。こんな事は珍しい。


「私が屋敷に案内するから、クリスティーナに伝えて」


 アイリがトーマスに話している。何だか知らないが凄い勢いだな。話が終わった後トーマスの声を聞くと、アイリの勢いに押されたのか、トーマスも戸惑っているようだ。明日に会おうと魔装具は切ったのだが、アイリのテンションの高さと主人の状態からか沈みがちなトーマスとの間に、大きな落差を感じたのである。

 

 ――クリスが帰ってくる。俺は何とか一曲だけでも聞かせたいと思って、朝からピアノの練習に励んだ。指の動きは相変わらず良くないが、ピアノを再開し始めた頃よりは、幾分かはマシになった。何よりもクリスと会えるという高揚感からか、演奏が少し軽やかになったような気がする。ピアノだけじゃないだろうが、気分がすぐに音に伝わるな。


 ところが待てど暮らせどクリスが来ない。もう放課後になっている筈なのに、誰も屋敷に来ないのだ。暫くして代わりにアイリが一人やってきた。しょぼくれているのを見ると、どうやらクリス達とは会えなかったようだ。アイリは俺に今日は来られないようになったようだと告げると、シャロンの字が書かれた便箋を見せてきた。


「体調不良か・・・・・」


「そうなの・・・・・」


 アイリが肩を落としている。アイリも俺と同じように、クリス達が来るのを楽しみにしていたようだ。シャロンが送った封書は昼に届いたらしく、おそらくは早馬を飛ばしてアイリ宛に届けたものなのだろう。シャロンの便箋には、今朝出発予定だったのだがクリスの体調が今ひとつなので、今日の学園行きを見合わせる事になりましたと書かれている。


「クリスティーナは無理をし過ぎて・・・・・」


「かもなぁ・・・・・」


 俺に逢いたいから学園に来ようとしている。先日トーマスが魔装具で教えてくれた話だが、口が裂けてもアイリには言えない。しかしよく考えれば、トーマスが魔装具で連絡を寄越してくれば良かったのだ・・・・・ どうしてそれをしなかったのだろうか。その辺りが解せない。いずれにせよ、俺達に出来るのは待つ事だけだった。


 クリス達がやってきたのは翌日の放課後の事。今度はアイリが満面の笑みで皆を連れてきてくれたのである。体調がイマイチだというクリスが心配だったのだが、顔色こそイマイチだがキチンと歩いている。普通の暮らしを送るところまでは回復したのだろう。むしろクリスは二人の従者、トーマスとシャロンと一緒に俺の怪我の方を心配してくれている。


「怪我の方は・・・・・」


「大分良くなったぞ。松葉杖が杖に変わったしな」


 俺は杖を掲げてみせる。屋敷に帰ってきた時には松葉杖で歩くのもおぼつかない状態だったのだが、今は杖を突いて歩けるまでになった。スッと立ち上がるところまではいかないものの、立つのに杖で支えて支障がないところまで来たので、ここまで回復するのに一週間という時間を考えれば上出来、御の字だろう。俺はクリスに体調の事を聞いた。


「今は・・・・・ もう大丈夫、よ」


 言葉とは裏腹にイマイチ元気がない。やはり万全とは言えないのだろう。とはいえ、学園にクリス達が帰ってきてくれたのは素直に嬉しい。聞くと公爵邸を出たのが午後という事で、到着したのが放課後前。つまりは先程着いたばかり。学園に来るのが一日遅れた理由は、警備上の問題。学園へ向かう、クリスの警備の準備に万全を期す為だったらしい。


「万が一の事があってはいけませんと言われて・・・・・」


 先日、襲撃事件で大変な事態となったので、そう言われては流石のクリスも黙って従うしかなかった。それを公爵邸にいる執事長ベスパータルト子爵が、様々な調整を行い、今日の昼に出ることが出来たそうだ。馬車十一台の車列を連ねて出発したという話だったので、かなり厳重な警備となってしまったようである。


「もし執事長が動いてくれなければ、いつまで経っても学園に来ることが出来なかったかも知れません」


「お嬢様!」


 珍しくシャロンが注意する。クリスの不満を抑えようとしたのだろう。いずれにせよ学園へ来るまでに、かなりのすったもんだがあったようだ。そんな所にニーナがお茶を持って入ってきた。クリスの顔がパッと明るくなる。ニーナが頭を下げると、「お母様」と挨拶を返すクリス。前からそうだが、クリスは本当にニーナの事が好きだな。


「では明日、ささやかですが皆様でお食事しましょう」


 クリス達から学園へ戻ってきた経緯を聞いたニーナが、そんな提案をした。いや、昨日の今日でそれは・・・・・ なんて思っていると、クリスもアイリも嬉しそうに「よろしいのですか?」「いいんですか?」と聞いている。ニーナが「私からのお話ですので」と微笑む中、明日に食事会が行われる事がすんなりと決まった。


 ――俺は朝からトーマスと一緒に執務室にいた。正確にはピアノ部屋から移動してきたのだが。トーマスが来るというので、それまでの間にピアノの練習をしようと部屋に籠もっていたところ、ジルに連れられてトーマスがやってきたのだ。しかし駄賃が稼げるとなったら、途端に動きが良くなったな、ジルは。流石商人の子、カネに目聡めざとい。


 トーマスが朝から屋敷へ来たのは授業が無い為ではない。俺と同じで授業に出ていないからである。昨日、クリス達が屋敷に来てくれたのだが、その中で学園にトーマスの居場所がないという話になった。学園では今、剣技を専攻しているしている男子生徒と、専攻はしていないが指名された男子生徒で学徒団が作られ、街を巡回している。


 それ以外の男子生徒は朝から夜まで訓練を受けなければならず、授業には女子生徒しか出られない状態。そこへトーマスが戻ってきても授業には出席出来ず、学徒団に組み入れられるか、訓練を受けるかしかないというのである。そこでトーマスは俺の面倒を見るようにと、主人であるクリスから仰せつかったのだ。


 まぁ、トーマスと話をするのは楽しいので、一向に構わなかった。同じ従者でもカテリーナ、アンドリュース侯爵令嬢の従者ニルス・シュラーのようなヤツだったら大変だ。全く無反応だったからな、アイツ。そのシュラーと比べれば、トーマスは普通に会話も出来るし、手筈をするのもソツがない。何よりも好奇心が旺盛なので、話をしていて面白い。


「今の相場は一二〇〇〇ラント。三〇〇〇〇ラントの小麦を借金して買った貴族は、一八〇〇〇ラントの損だよ。これからどうなるんだ?」


「月末までに相場が三〇〇〇〇ラントにならなければ、一八〇〇〇ラントの追証が来る」


「追証? なんだそれは?」


「カネを借りる時、持っている小麦を担保入れてカネを借りているんだ。小麦価が三〇〇〇〇ラントだったら、これを担保にして三〇〇〇〇ラントを借りて小麦を買う。ところが小麦価が一二〇〇〇ラントに下がってしまったら、一二〇〇〇ラント分の担保能力しか無くなってしまうんだ」


「そうか! 担保価値が下がってしまうから、昨日まで足りていたものであっても、足りなくなる。その分のしちが必要になるのか!」


 流石トーマス! 飲み込みが早い。担保価値が下がれば保証しなければならなくなるのは当然の話。俺はそうそうと言いつつ、トーマスが指摘した「質」。失われた一八〇〇〇ラント分の担保価値について、これを保証しなければならなくなる事を指摘して、これを追証と言うのだと教えた。


「しかし・・・・・ どうやって保証するんだ?」


「単純な話、一八〇〇〇ラントのカネを積めばいいだけだ」


「そんなお金があるのか?」


「あったら、最初から借金なんてする筈がないじゃないか!」


 俺がそう言うとトーマスが確かにそうだと、手を叩いて大笑いをした。トーマスは更に疑問をぶつけてくる。


「もしも、もしもだよ。そのお金が積めなかったら・・・・・ どうなるんだ?」


「決まっているじゃないか。借金に遅延金が乗る」


「でも、それも払えないから踏み倒されてしまうんじゃ・・・・・」


「今は『踏み倒し防止政令』があるから、踏み倒せないんだよ」


 正式には『借入金ノ返済二関スル政令』によって、身分の上下に関わらず、借金の踏み倒しは禁じられている。この政令によって取引の信用性が高まり、流通が盛んとなって、ノルデン王国の通商は急速に興隆した。これによって王国の税収が増えて、その恩恵に浴している以上、貴族が踏み倒そうと思っても踏み倒せないのだ。


「だけど、何かを差し押さえたりは出来ないんだろ」


 そうだったな。現在、貴族の財産は『貴族財産保護政令』によって、差し押さえが出来ないようになっている。カネは踏み倒せないが、差し押さえもされない。それが今の貴族が置かれた状況。『貴族ファンド』からカネを借り、自ら『鳥籠』に入った貴族達の地位を巡って、二つの政令が相反する事態が生まれつつあった。

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