511 ニベルーテル枢機卿
ケルメス大聖堂に向かう一つにも物々しい警備が付く。以前には考えられなかった話だ。しかしそのような立場になって初めて分かった。クリスがどうして警備を嫌がるのかを。これじゃ、何処にも出かけられない。ただクリスは生まれながらの身分ゆえ、身に付いているから我慢も出来るだろうが、俺のみたいな者がいきなりやられたら、正直たまらない。
「貴族会議の話が終わったら、元に戻るだろう。それまでの辛抱だ」
「あとどれくらいなのでしょうか?」
「二週間程度だと思う」
ニュース・ラインから聞かれたので、そう答えた。アウストラリス公が建議した貴族会議の開催。賛同者の書類を内大臣府へ提出する期限が再来週だった筈。ここで全貴族の三割以上の賛同を得られているかが大きなポイント。クリス主催の『御苑の集い』の開催まで一週間を切った今、貴族会議を巡る攻防は終盤へ差し掛かったと言ってもだろう。
「二週間が過ぎれば元に戻るのですか?」
「断定はできない。が、緊張感は和らぐと思う」
アイリに嘘は吐けない。今の緊張感が生じているのは貴族間抗争と商人間抗争がリンクしているからで、その内の貴族間抗争が収まれば商人間抗争のみとなり、必然的に沈静化される筈である。というのもレジドルナ、トゥーリッド商会が冒険者ギルドの連中を使ってあれこれ仕掛けているのは、彼らの背後にいるアウストラリス公の意向を汲んでのもの。
アウストラリス公が仕掛ける権力闘争。貴族会議開催の建議を実現させるべく、小麦価を釣り上げたり暴動を引き起こしたりして、王国統治の不安定化を画策しているのだから。その責を宰相に問うて、権力を我が手に入れようとしているアウストラリス公の野望。即ち宰相失脚という計画自体が頓挫すれば、手助けしようがなくなるのは必然なのだから。
しかし、俺の見通しのように話が進むのかどうかは別の話。仮に貴族会議の建議が通らず、アウストラリス公の野心が砕かれたとしても、商人間抗争は残ったまま。場合によっては建議が成立して、貴族会議が招集される可能性は否定できない。つまりはアウストラリス公が勝つ未来も想定できる訳で、だからこうなるという断定などできないのだ。
「『御苑の集い』が成功裡に終わり、早く平穏な世に戻したいものですな」
「全くだ。音楽の事だけ考えられる世にしたいものだ」
ニュース・ラインの言葉を受けて俺が返すと、アイリが「グレンは本当に音楽が好きなのですね」と言ってきたので、俺は音楽が好きなのだと、改めてそれを自覚した。音楽が好きというより、ピアノが好きなのだろうが、この際どちらでもいい。とにかく何も考えずピアノを弾いて暮らせるのが、一番の幸せなのだと、アイリの話を聞いて思った。
ケルメス大聖堂に到着すると、シュメールら警護の者達は外で待機し、俺とアイリとニュース・ラインの三人で中に入ることになった。いつものように受付横にあるドアから事務室に通じる廊下を通り、応接室に入って暫く待っているとアリガリーチ枢機卿とニベルーテル枢機卿が入ってきた。俺達は全員立ち上がり、一礼する。
「アルフォード殿、話は伺ったぞ」
「猊下、お元気そうで何よりです」
トラニアス祭の暴動における裁判に携わったことで体調を崩したというニベルーテル枢機卿だが、実際に会ってみると思ったよりも元気そうだった。アリガリーチ枢機卿とも久しぶりに会う。ただ、ラシーナ枢機卿の姿が見えなかった。聞くとラシーナ枢機卿は現在、ムファスタのインスティンクト大聖堂に出張中であるとの事。
インスティンクト大聖堂は元の名を「本能寺」といい、今は無き旧教、モルト教の総本山だったところ。そんな所にわざわざ行くとは余程の用事があるのだろう。ふと横を見ると隣に座るアイリも、その隣にいるニュース・ラインも両枢機卿を前にして、緊張のあまりか固まってしまっている。そこで、二人に挨拶をするように促した。
「サルンアフィア学園に通っておりますアイリス・エレノオーレ・ローランです」
「ほぅ。アイリス殿ですか」
アイリが挨拶をすると、ニベルーテル枢機卿が反応した。これにアイリがハッとした感じでビックリしている。人々の崇敬を集めるケルメス宗派の長老格が自分の名前を述べたので、驚いたのだろう。一方、ニベルーテル枢機卿の方は何か感心しているようだ。どうしてなのだろうかと思っていると、意外な事を話し始めた。
「昔、貴方と同じ名前の赤子を祝福した事があってな・・・・・」
「こ、光栄に存じます」
アイリは戸惑いながらも笑顔でそう答えた。いきなりそんな事を言われたので驚いているが、その表情を見るに喜んでいるようである。これは敬虔なアイリが、ケルメス宗派の長老格であるニベルーテル枢機卿から声を掛けられたからだろう。
「ところでアルフォード殿。図書館の書架、よく整備なされたな」
「まだ全てとは言えませんが・・・・・」
「いやいや。誰も読めぬ魔導書をあそこまで整理してくれたら十分じゃよ」
ニベルーテル枢機卿は満足気に笑ってくれた。ほぼ九割九分整理が出来たのだが、一部、整理ができていない魔導書があった。「球根栽培法」とか「
なので、取り敢えず「未整理」に区分けしておいた。平和なエレノ世界にどうしてこんな訳の分からぬ本があるのか理解に苦しむが、もしエレノ製作者の趣味だというのであれば、それはもう悪趣味としか言いようがない。取り敢えず日本語で書かれているので、誰が読んでも分からないというのを幸いだと思わなければいけないだろう。
万が一、レジドルナの冒険者ギルドのような連中が日本語を読めたのなら、何をしでかすのか分からない。限られた人しか立ち入りが出来ない、ケルメス大聖堂の図書館。その図書館の中でも許可された者しか閲覧が許されない書架に置かれているのだから、おそらくは人目に触れる事もないだろう。その部分が唯一の救い。
「これで貴重な魔導書も無事に整理ができた。感謝するぞよ」
「お力になれまして光栄です」
ケルメス宗派の長老格であるニベルーテル枢機卿からの謝辞に、俺はそう返した。するとニベルーテル枢機卿は魔導書について話し始めた。曰く、ケルメス大聖堂が創建されて以来ノルデン全土より魔導書が集められ、図書館へ収蔵され続けてきたと。ただ、最近は新たなる魔導書が見つからなくなっているとの事だった。
「それは魔導書が軒並み収蔵されたからではありませんか?」
「確かにそれはあろうな。数百年も集め続けておるのだから。この世にある魔導書を網羅していると言っても過言ではあるまい」
しかしノルデン各地から集められたという割には、書架にある「魔導書」なるものはイマイチなものが、少なからずあった。まぁ、この世界でいう「魔導書」というものが、単に日本語で書かれた書物なので仕方がない部分はある。謎の料理本だったり、煙草がないのに様々なキセルを解説する本だったり、理解不能なものが多いのだ。
内容がイマイチだったり、意味不明だったり、訳が分からなかったりと、存在そのものにクエスチョンマークが付くものが多いのは、読めない日本語で書かれている書物を魔導書と規定したからだと思われる。だが内容はどうあれ、ケルメス大聖堂の図書館に魔導書が長年に亘って集められてきたのは事実であり、間違いない話。
「この図書館にない魔導書は大魔術師サルンアフィアの書ぐらいなもの」
ニベルーテル枢機卿が言う。王室付属サルンアフィア学園の創設者、サルンアフィア。そのサルンアフィアが著したという魔導書があるというのは、今日この場にいないラシーナ枢機卿が以前教えてくれた。ラシーナ枢機卿の話ではその魔導書、サルンアフィアが女帝マリアの家庭教師をしていた関係で、王室図書館に収蔵されているそうである。
だが、王室図書館に立ち入ることができるのは、王族と特別な許可を受けた貴族のみ。なので一介の平民に過ぎない俺が、収蔵されているというサルンアフィアの魔導書を閲覧するのは、まず不可能な話である。しかしサルンアフィアが魔導書を書いたという事は、日本語の読み書きをサルンアフィアが出来ていた事を示す。
「何が書かれているのでしょうか?」
「それは誰にも分からないのじゃよ。誰も見たことがないのだから」
「えっ?」
「サルンアフィアの魔導書は女帝マリア様の御聖慮に依り、貴族どころか王族でさえも閲覧が許されてはおらぬ」
なんと! まさかそこまでの扱いがなされていたとは! ニベルーテル枢機卿が言うには、サルンアフィアより直接薫陶を受けた女帝マリアが、魔導書に書かれている内容を危惧して、閲覧を禁じたのではないかという。具体的に言うなら今のエレノ世界では絶えてしまった、未知の魔法について書かれているのではという認識を示した。
「何しろサルジニア公国との国境を容易に行き交い出来ぬよう、結界を張られたお方。三百年以上保ち続けられるような魔法を唱えられるのは大魔術師サルンアフィアを除いて、他にはおらぬからのう」
以前ロバートが話していた、透明な膜のようなものだというサルジニアとノルデンの国境線に張られた『結界』。検問所以外から出入りする事ができず、サルジニア公国から入る事すら叶わないという結界。どのような理屈なのかは不明なのだが、検問所から出入りできるのがノルデン民のみという謎仕様に興味を持った事がある。
確かにニベルーテル枢機卿が言うように、このエレノ世界において、そんな魔法を唱えられるものは誰もいない。というか、日本語を書くということは、おそらくは日本人の筈。ケルメス宗派の創始者ジョセッペ・ケルメスと同じなのだろうが、どうやってその謎魔法を身に着けたのだろうか? 聞けば聞くほど、サルンアフィアの謎は深まるばかりだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます