512 聖歌隊
今日、俺達がケルメス大聖堂を訪ねたのはクリス主催の『明日の小麦問題を考える御苑の集い』の場で、「華龍進軍」にアイリが歌詞を付けたものを大聖堂に所属している唱歌隊に歌ってもらうよう依頼をする為だったのだが、ニベルーテル枢機卿の話が重要過ぎてそれどころではない。
大魔術師サルンアフィアについてここまで話せるのは、ケルメス宗派の長老格であるニベルーテル枢機卿以外にはいないだろう。まず学園や学院の授業で聞けるレベルを遥かに超える話である。ただ、いつ終わるとも分からないニベルーテル枢機卿の話を見かねたのか、アリガリーチ枢機卿が今日の本題を提示してくれた。
「封書で出されておりますアルフォード殿の要望。如何なされましょうか?」
「おお、そうじゃったのう。何でも聖歌隊に御苑で開かれる集いで歌を歌って欲しいとか」
「しかし、唱歌隊が歌えるものは賛美歌しかございませぬ。御苑という場にそぐわぬものではないかと・・・・・」
「うむ・・・・・ そもそもが教会の外で歌うなど、これまで無かった事であるからのう」
「私も聞いた事がございません」
ニベルーテル枢機卿もアリガリーチ枢機卿も俺の依頼に戸惑っているようだ。二人共、聖歌隊を出すのに消極的である。そもそも聖歌隊はケルメス大聖堂で、賛美歌を歌うのがその役割。外に出て、歌を披露するのが仕事ではない。しかし御苑で歌を披露するには、ケルメス大聖堂の聖歌隊が必要。どうすれば二人を説得すればいいのか。
「猊下。恐れながら、こちらの方をご覧いただきたく」
俺が思案していると、ニュース・ラインが机の上に持ってきた紙を広げた。歌詞が書かれているので楽譜のようだが、五線譜が書かれていない。代わりに見たこともない記号で表されている。今までお目にかかったこともないような形式の楽譜だ。だがニベルーテル枢機卿もアリガリーチ枢機卿も、その楽譜を熱心に覗き込んでいる。
「聖歌隊の皆々様が歌えますよう、譜面をバルタ譜で記載致しました」
ニュース・ラインの説明に、二人の枢機卿が頷いている。初めて見る形式の楽譜はバルタ譜というらしい。恐らくは賛美歌を歌う為に書かれた表記法なのだろう。記号の意味が分かるのか、ニベルーテル枢機卿もアリガリーチ枢機卿も熱心に楽譜を見ているので、少々驚いた。音楽のないこのエレノ世界で、形式は違えど譜を読める人が目の前にいた事が衝撃的なのだ。
「「ノルデンの平和と幸せのために」とは・・・・・」
「表題です。こちらにおりますローランが詩を書きました」
アリガリーチ枢機卿から聞かれたので、俺はそう答えた。アイリが黙って会釈をしている。ニベルーテル枢機卿が大きく目を見開いた。
「おおっ。貴方が書かれたものですか」
「は、はいっ・・・・・」
戸惑いながら返事をするアイリ。まだ緊張感がほぐれていないようだ。それは見たこともない形式の楽譜を出したニュース・ラインも同じである。ニベルーテル枢機卿がアリガリーチ枢機卿の方を見ながら話し始める。
「どうだろう。この詩を見るに、広く人々に知らせるべきものではないか」
「は、はぁ・・・・・」
「聞けば公爵令嬢は陛下より御苑を借り受け、民を悩ませている高値の小麦について、貴族を集めてその対策を考えようとなされているとか。その席でこの歌が歌われるのは、意義があるのではないか?」
ニベルーテル枢機卿はアリガリーチ枢機卿を説得し始めた。歌詞に感動してなのかどうかは分からないが、ニベルーテル枢機卿は俺達が考えた「御苑の場で「ノルデンの平和と幸せのために」を聖歌隊の合唱で披露する」という計画に賛同してくれたようである。困った表情のアリガリーチ枢機卿にニベルーテル枢機卿が言う。
「ケルメス様は「変わらなくともよい時には変わらなくともよいが、変わるべき時には変わらなければならない」と仰った。今が変わらなくてもよい時なのか、変わるべき時なのかを考えた時、変わらなくてもよいと思うものは少なかろう」
「ご指摘の通りでございます・・・・・」
「ならば変わるべき時であるというなら、やり方も変えなければなるまいに」
「歌に合わせ、演奏を行うつもりでございます。聖歌隊の声と、我が『常在戦場』の鼓笛隊の音が、一体となって曲を奏でる計画でございます」
二人の枢機卿の会話が止まった隙を突くかのように、ニュース・ラインが「ノルデンの平和と幸せのために」の演奏法について解説した。これにはアリガリーチ枢機卿がビックリしてしまっている。ケルメス大聖堂の聖歌隊の合唱には伴奏が付かない。それが当たり前なので、演奏がなされる中で歌うというのは衝撃的のようである。
「そのような方法で上手くいくのでしょうか?」
「もし宜しければ鼓笛隊を連れ、一度合わせていただければ・・・・・」
アリガリーチ枢機卿が合唱と合奏が一緒に出来るのかと不安の声を上げると、ニュース・ラインが鼓笛隊をケルメス大聖堂に連れてくると言い始める。それを聞いたニベルーテル枢機卿が「一度やってみてからでもいいのではないか」などと歩調を合わせたものだから、アリガリーチ枢機卿は最終的に同意をせざる得なくなってしまった。
「では一度、鼓笛隊を連れて参ります」
「そこで聖歌隊と合わせられるかどうかですな」
ニュース・ラインが鼓笛隊を連れてくると言うと、アリガリーチ枢機卿が結果次第と話したので、どうやら試用期間であるといったなし崩し的な形で話が纏まったようだ。交渉というものは、こういった有耶無耶の流れの中で決まっていく方が多い。しかし纏まり方はどうあれ、ケルメス大聖堂の聖歌隊を「貸し出し」ては貰えそうである。
――昨日のケルメス大聖堂におけるニベルーテル枢機卿らとの交渉は、『常在戦場』の鼓笛隊と聖歌隊が一度音合わせを行って、それを見て協力の可否を判断するという形で収まった。言い方は悪いが、既成事実を積み重ね、結果として聖歌隊を御苑に派遣する形になってしまった。要はその体裁を取る為の儀式のような感じだ。
だが聖歌隊は本来、ケルメス大聖堂で賛美歌を歌って神を称えるのがその役割な訳で、ノルデン貴族らを慰撫するのが目的ではない。だからアリガリーチ枢機卿が『御苑の集い』に聖歌隊を派遣する事に消極的だったのは、むしろ当然の話。ただ、ニベルーテル枢機卿が強力に後押しをしてくれた事で、なし崩し的に纏まったのである。
どうしてニベルーテル枢機卿が協力してくれたのかは、正直分からない。ただケルメス大聖堂の長老格である、ニベルーテル枢機卿の後押しのお陰で話は成立した。逆に言えば、後押しがなければまず成立しない話であったといっても差し支えないだろう。帰りの車上、アイリもニュース・ラインも緊張感から解放されたのか、ホッとした表情を見せていた。
「ニベルーテル枢機卿猊下と直接面会できるなどとは思ってもみませんでした」
ニュース・ラインが驚きと共に感激した心境を話してくれた。自分のような身分低き者が、ケルメス宗派の枢機卿という高位神官と面会して話をするなど、想像もしていなかったというのである。前回の歌詞合わせの際、俺からケルメス大聖堂へ行って交渉すると言われた時にも、大聖堂へ請願しに行くのだろうと思っていたらしい。
「私も枢機卿猊下とお会いできるなんて想像もできませんでしたよ」
「まったく、おカシラは凄い」
「はい。それがグレンですから」
アイリとニュース・ラインは二人で盛り上がっている。俺はそこまで気にしていなかったが、ケルメス宗派の枢機卿というのは、人々の崇敬を集めているようだ。敬虔そうなアイリならいざ知らず、あまりそのようには見えないニュース・ラインでさえもそのように話すぐらいなのだから、この世界におけるケルメス宗派の存在感は絶大だ。
「ところでバルタ譜とは何だ?」
「あれは聖歌隊で使われております楽譜です。あれを見て、皆賛美歌を歌われるのです」
ニュース・ラインの話によれば、神官になるためにはバルタ譜を読む事が必須であるらしい。だからニベルーテル枢機卿もアリガリーチ枢機卿も楽譜を読むことが出来たのか。話を聞いて俺の中でしっかりと繋がった。しかし、それだったらフレディも読めるという事だな。今はクラスに行ってないが、落ち着いたら一度聞いてみてもいいだろう。
今日は最近にしては珍しく予定が入っていないので、朝の鍛錬の時間を増やした。休日なので鍛錬する者は少なかったのだが、それでもリシャール達商人子弟三人組とレティの弟ミカエルは鍛錬をしている。ぐうたらなヤツが多いエレノ世界の中で、珍しい生き物達だ。鍛錬の合間に皆で休憩を取ったのだが、そこで思わぬ話を耳にした。
「男子生徒全員が集団盾術の訓練を受ける?」
「はい。僕達も訓練を受ける事になりました」
リシャールからの話を聞いて、俺はビックリした。そもそも集団盾術の訓練は剣技を専攻している者だけの筈。それがいつの間にか全学生徒に変わっているんだ? ミカエルがリシャールに続く。
「恐らく我々が歩行訓練で外に出ているからではと」
「歩行訓練?」
「はい。先週から学園の外で大盾を持って歩行訓練を行っているのです」
話によると剣技専攻の生徒達が昼から大盾を持って、連日トラニアス市内を歩行訓練しているのだという。学園に帰ってくるのは夕暮れ時というので、皆が疲れ切っているらしい。ミカエルの推測では歩行訓練の様子を見た学生差配役、即ちスピアリット子爵が訓練する生徒達が足りないと判断して、全学生徒の訓練に踏み切ったのではと言うのである。
「閣下の言われる通りだと思います」
リシャールの兄弟分、シーラ・セルモンティが言ってきた。「閣下」とは誰だと聞いたら、ミカエルの指すという。シーラ達の学年ではミカエルが子爵なので、皆が「閣下」と呼び習わすようになったらしい。俺の学年で、アルフレッド王子の事を「正嫡殿下」と呼んでいるのと同じだな。シーラの話を聞いたミカエルは、少し照れくさそうだ。
「正直、困るよ。その呼び方」
「しかし学園で唯一、爵位を持つ生徒ですから」
リシャールのもう一人の兄弟分セバスティアン・マルツーンがそう言いながら、ミカエルは学年の誇りですと胸を張ったので、当事者が大いに困っているのが笑えた。しかし容姿端麗、品行方正、温厚篤実なミカエル。その人望の高さを窺い知る事が出来る話である。
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