509 売り浴びせ
アイリが詩を「華龍進軍」に付けた歌をケルメス大聖堂の聖歌隊に歌ってもらう。この斬新な発想を実現するため、大聖堂に赴いて、ケルメス宗派の長老格であるニベルーテル枢機卿と話し合う。聖歌隊を借り受けるのだから、いきなりの飛び込みではなく、『御苑の集い』で披露する事情を封書に
「ニュース・ライン。行ける事になったら、一緒に行こう」
「よろしいのですか!」
「もちろんだ。ピアノしかできん俺と違って、全体の事が見渡せる指揮者だからな」
「分かりました。枢機卿
『華龍進軍』の楽譜を握りしめたニュース・ラインは、はずんだ声で大きく頷いた。この世界の住人は、ケルメス宗派への信仰心は強い。ニュース・ラインもその例外では無かった。ふとアイリの方を見ると、羨ましそうな目でニュース・ラインを見ている。恐らくはアイリもケルメス大聖堂へ行きたいのだろう。俺はそんなアイリに声を掛けた。
「アイリもだよ」
「えっ、私も?」
「ああ。作詞者だからな。俺達と一緒に行こう」
「うん!」
首を縦に振って嬉しそうに笑うアイリ。元より一緒に行くつもりだったのが、こうして喜んでいるのを見ると、キチンと言ってよかったと思う。以前、行き違いを起こした時、アイリは疎外感を訴えていた。だからアイリを一人にしてはいけない、動く時には一緒に動くようにしなければいけない。そう考えるようになっていたのである。
「一度、ケルメス大聖堂へ封書を送って確認してから、一緒に行こう」
俺が言うと、アイリとニュース・ラインは改めて頷いた。大筋の話が決まったので、合唱曲となった「華龍進軍」の編曲についての話に移った。俺とアイリが歌詞合わせをした楽譜を見ながら、ああしたら、こうしたらと話すのは非常に楽しい。修正する箇所も決まったので、ケルメス大聖堂からの返事を待って次の行動に移ろうと皆で確認した。
――昨日の小麦相場は一三八四三ラントで引けていた。俺が指していた一四〇〇〇ラントにも到達しなかったようである。いわゆるレンジ相場、ヨコヨコというヤツだ。相場が一気に上がり過ぎて、これ以上伸び切らなくなってしまっている。代わりに多くのプレーヤーが望んでいるのは、球拾い。少し下がった値で小麦を買うというヤツである。
「一三〇〇〇ラント辺りでの買いが厚すぎる。だから値が動かん」
エッペル親爺が今の小麦相場の状況について、あれこれ説明してくれた。相場値よりも高値で買いを入れているのが現段階で俺だけという中、小麦の売りが少ない為に取引そのものが縮減し、相場の動きが弱くなってしまっているという。いわゆるレンジ相場というヤツだ。これは商い量が少ない事によって発生するもの。
レンジ相場ならば、上限と下限の差が狭くなる。その分、下限が見極め易いので、その辺りに買いを入れているという訳だ。それ以上は下がらない。だから安全だし、上がれば即利益。皆、考えることは同じで、勝ち易きに勝ちを取りに行こうとするもの。そういった考えの基で、レンジ下限辺りに分厚い買いが入っているのだ。
こういったヨコヨコ相場の中では、今の小麦値よりも下にある分厚い買いが無くならなければ値が上がらない。売りが入っても、レンジの下限辺りに集まっている買いに引っ張られて、小麦が吸い取られてしまう。だから相場が上がっていく為には、この分厚い買いが現在値よりも高い位置になければならないのである。
買いが買いを呼ぶ相場とする事で初めて相場値が上昇する。相場値がもう一段上がるには、相場値より下にある分厚い買いが雲散霧消しなければならない。何でもそうだが、跳ねるには一旦縮まなければならない。力を溜めてこそ大きく跳ねるもの。要はリセッションが必要となるのである。俺は若旦那ファーナスと、ウィルゴットに連絡を取った。
「今ある小麦をすべて売るだと!」
「そんな事をしていいのか?」
俺の提案にファーナスもウィルゴットも魔装具越しに声を上げた。前回の売り出しに際しては、相場値を釣り上げる為の呼び水程度の量しか売りには出していない。しかし、今回は成約済み以外の小麦を全て売りに出せというのだから、二人が驚くのは無理もない。俺は相場値をもう一段上げる為には、ここで売るしか無いと話して理解を求める。
「今売れば、九割以上の利益が出ます。高値で買いたいと思っている連中に惜しみなく売りつけましょう」
「グレン。確かに膨大な利益が出るが、手持ちの小麦がなくなるぞ」
「まだ小麦は入ってくる。それを貯めればいい」
突然振られて慎重になっているのだろう。ウィルゴットが小麦在庫の心配をしている。それは薬草と小麦の在庫管理をしている若旦那ファーナスも変わらなかった。
「もう薬草も入ってきていない。輸入できる小麦の量はもう限られているぞ」
「しかし薬草はまだ倉庫に残っているでしょう」
「ああ、まだあるさ。しかし、ノルト=クラウディス公爵領からもサルジニア公国からも搬入量はゼロだ」
今残っている薬草が全て尽きれば、これまで三商会が組んで行ってきた、ディルスデニアとラスカルトの両王国からの小麦独占輸入は終わってしまう。それをファーナスは恐れているのだ。確かにその気持ちは分かる。確実に儲かるのだから。だが、それは以前から持っていたものなのか? つい半年ぐらい前に手に入れた、短いものではないのか?
「新たに得ようと思えば、今持っているものを手放さなければならない時だってある」
「グレン・・・・・」
ウィルゴットが何かを言おうとしているようだが、それは無視をして話し続ける。
「前の会合で決めたじゃないか。『貴族ファンド』のカネを吸い上げる為、小麦を二〇〇〇〇ラントにすると」
「しかしだ。あの時、小麦を全て売るとは・・・・・」
「やろうじゃないか」
ウィルゴットの言葉をファーナスが阻んだ。
「あの時、そう決めたよな。ウィルゴット君、小麦相場はグレンに任せると決めたんだ」
「ファーナスさん!」
「ここは一つ、グレンの提案を実行しようではないか」
戸惑うウィルゴットを魔装具越しに説得するファーナス。魔装具の会議機能、グループ会話機能がここまで役に立つとは思わなかった。熱心なファーナスの説得に、ウィルゴットも同意をしてくれたのである。
「よし、ここは景気よくパァーっと売ろうぜ!」
「グレン、ここはお前の腕にかかっている。しっかりやれよ」
ウィルゴットが気勢を上げる一方、若旦那ファーナスが俺を叱咤してきた。確信があるとはいっても気が引き締まる。二人との話を終えた俺は、エッペル親爺に再び連絡を取り、今日の段取りについて説明した。まずジェドラとファーナスの両商会が小麦の現物を売りに出し、その次に俺が買い上げてきた小麦を全て放出する。
「全部か・・・・・」
「ああ、全部だ」
「そ、そんな事をしたら、いつぞやの小麦相場の時と同じ半値になるぞ」
「ああ、先刻承知だ」
エッペル親爺が言っている「いつぞやの小麦相場」とは、ザルツ主導でジェドラとファーナスの両商会が小麦相場へ直接小麦を売りに出して、小麦価が暴落した一件だ。あの件の時、突然の暴落に挙動不審となっていたディール子爵親子の動きに不信感を抱いたディール子爵夫人が、息子達と話して俺に相談をかけてきたのだったな。
「一旦相場値を落として、買いを全て刈ってから、再び買い上がる」
「一気にか」
「暴落すれば、必ずや狼狽売りが出るはず。誰も買わない中で、一気に高値で買い上がる」
俺の説明にエッペル親爺は「なるほどな」と了解した。おそらくは俺の意図が分かったのだろう。エッペル親爺は長年に亘って取引ギルドに身を置いた、いわゆる相場の世界で生きる人間。俺の言わんとする所を瞬時に理解できたようである。準備に入るとエッペル親爺が言うと魔装具は切れた。これで小麦相場は新たなる局面に入る。
――相場が開くまでの間、ロタスティで手にした『週刊トラニアス』と『翻訳
いくらオーナーがアウストラリス派に属するイゼーナ伯爵家だからといっても、その熱量たるや半端なものではない。そのお陰でこちらの方はアウストラリス派を中心とする貴族会議開催に賛成する陣営の動向について、詳しく知る事ができるのだからありがたい。ただ、今日はネタ切れだったのか、女編集長であるセント・ローズの論説だった。
「貴族会議開催は王国の繁栄と民衆の幸福をもたらす」
美しい表題を付け、貴族会議開催の必要性をひたすら訴える内容だった。貴族会議が開催されれば小麦の暴騰は収まり、庶民は落ち着きのある生活を取り戻すことができる。そうした素晴らしい提案をアウストラリス公が行わてたのだから、良民はすべからずアウストラリス公が建議なされた貴族会議開催に賛成すべきだ。そういった論調である。
これは論説とか報道ではなく、宣伝。いや洗脳とか、プロパガンダとか、そういった類のものだろう。『翻訳
しかし号外なのに記事一つ出せず、編集長の作文だけで紙面を作るという力技に出てきたというのは一体何なのか? あまりにもネタ切れ過ぎるのではないかと思うが、それでも号外を出してくるというのは、アウストラリス陣営の危機感がそれだけ強いと考えることもできよう。
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