506 目標設定
遂にアイリの歌が披露されてしまった。黒屋根の屋敷のピアノ部屋で、クリスと二人の従者トーマスとシャロンを前にして、堂々と歌ったアイリ。声質はいいのだが、音程が激ヤバ過ぎて、歌を歌う文化がないエレノ育ちの三人でさえも、アイリの歌に違和感を抱いているようだった。
「どうだった?」
「ええ、そうねぇ・・・・・」
楽しそうに聞くアイリと、明らかに戸惑っているクリス。アイリはクリスが困っている事に全く気付いていないようだ。クリスが俺の方を見てアイコンタクトを送ってくる。何とかしろ。以心伝心、クリスの意図がピンピンと伝わってくる。しかしどうすればこの状況を脱することができるのか。目で訴えかけてくるトーマスとシャロンを見ながら考える。
「アイリ。もう一曲歌おうか」
「うん」
俺ができる唯一の手段。伴奏を続けるという手を使った。これならば、話さなくてもいい。俺は「タカラジェンヌに栄光あれ」を弾き、その次に「愛の残骸」を弾いた。いずれもヅカ曲。アイリは大好きなヅカ曲に合わせて、機嫌よく歌っている。美しいソプラノの声。声質は最高なのになぁ。アイリがへばったところで休ませ、俺は「悲愴」を弾いた。
――俺は今日も授業を受けず、黒屋根の屋敷でエッペル親爺から小麦相場の状況連絡を受けていた。昨日の終値は八二五六ラント。おそらく一気に値が上がったので、かなりの売りが出たようである。ということは、今日も小麦の売りが出てくる筈。なので俺は九五〇〇ラントで予約注文を行い、更に高値に誘導する方針を固めた。
相場が開くと、俺の目論見通りに相場は展開する。そもそも、プレイヤー全員の予約注文を把握した上で仕掛けているのだから、こんな出鱈目な取引はないだろう。エッペル親爺からの情報で取引計画を構築している時点で、もうインサイダー。いや。こんなものはインサイダーですらなく、最早ペテンであり、限りなくイカサマだと断言しても良い。
しかしながら、そんな事などお構いなしなのがエレノの常識。小麦価は上がり続け、午前の終値で一一六五四ラントに達した。半年かけて五〇〇〇ラントまで上がった小麦価が、僅か二日で二倍超。エレノ相場は本当にインチキ相場である。この相場の急変に驚いた若旦那ファーナスやウィルゴットから、相次いで連絡があった。
ファーナスの方は本当は昨日、連絡をしたかったが状況を見極める為に一日様子を見たとの事。一方でウィルゴットはと言えば、途中から本人ではなくてジェドラ父が出てきて「でかした! でかしたぞ!」と魔装具越しに大声で激励してくれたのだ。二人共、一日でここまで相場が上昇するとは思っていなかったらしい。
「これでは一〇〇〇〇ラント越えはもう確実。相場は更に上抜けする」
「アルフォード殿が目標値としていた三〇〇〇〇ラントも達するかも知れぬな」
ファーナスとジェドラ父が、それぞれ感想を述べた。実はザルツは魔装具を使った会合で、想定小麦価を三〇〇〇〇ラントに設定したのだが、皆がそれに懐疑的だったのである。これには強気のエッペル親爺でさえ「二週間でその値というのは・・・・・」と引いたぐらいなので、誰もが難しいと考えるのは当然の話。しかしザルツはその考えを一蹴した。
「これは政治的な要求に基づく価格。実現可能性の有無ではなく、実現することが必須要件だ」
政治課題、すなわち貴族会議開催を目論むアウストラリス公の多数派工作。その工作の軍資金と化している『貴族ファンド』の資金を吸い上げて、工作そのものを鈍化させ、多数派工作を阻止して宰相を守るという課題実現の為には必要だとザルツは力説した。つまり、商人的な実現可能性を議論するのは無意味な事だと、暗に説いたのである。
「高く仕入れて安く売る」、あるいは「安く仕入れて高く売る」のが絶対である商人論理からすれば信じ難い話なのだが、「高く仕入れて安く売る」や「安く仕入れられるモノを高く買う」なんて非合理な事がまかり通るのが政治課題。大きな思惑の前には、そのようなものは些事にしか過ぎない。だから商人論理から逸脱するのは当たり前だという話。
もっと踏み込んで言うなら商人理論に拘るあまり、カネを惜しんで宰相位をアウストラリス公に奪われてよいのかという事なのである。そのカネは、宰相がノルト=クラウディス公であるからこそ、保証されているカネ。これがアウストラリス公ならば、そのような保証などは皆無である。
確証こそはないものの、おそらくは理由をつけて、いくらでも奪われてしまうだろう。何故そのように言えるのか。それは今の『貴族ファンド』の動きを見れば分かるではないか。小麦相場に湯水の如くカネをつぎ込み、手段を選ばぬ仕手戦を行って小麦価を釣り上げる。そんな事をやる連中が、民衆の暮らし、いや人の事など考える筈がないではないか。
だからこちら側が採れる策は対抗する事、対峙する事しかない。これまで相手が釣り上げてきた小麦相場を今度はこちらが釣り上げにかかるのだ。そのような状況、おそらくは『貴族ファンド』もアウストラリス陣営も想定外である筈。ただ、相手の方が好機と捉えているのか、突然の事に混乱しているかについては、現段階では全く分からない。
これがドラマや小説ならば、相手側の描写があるのですぐに分かる。しかしそんなものは作り物の世界の話。リアルであれば、そんな都合の良い話なんかは当然ながら無い。相手側の情報が分からない中、想像しながら手探りで勝負していくしかないのである。その点、ザルツの目標設定というのは非常に分かり易いと言えよう。
「貴族会議開催の建議の提出期限までに相場値を三〇〇〇〇ラントとする」
つまり、とにかく小麦価を三〇〇〇〇ラントにさえすれば良いのだ。手段は選ばなくてもいい。これが現実世界であれば法令でパクられる恐れがあるが、こちらは無法も天下御免で許されるエレノ世界。グレーゾーンどころか、明らかなブラックゾーンで勝負ができる。目標設定をザルツが行い、俺がその実現の為に実行する。
戦略をザルツが練り、戦術を俺が担うと言ったところか。だから俺は三〇〇〇〇ラントに上げる事一点を考えればよい。その上、打ち合わせから取引まで全て魔装具で行っており、執務室に座って話しているだけなので非常に楽である。今も魔装具でエッペル親爺とやり取りをしていたのだが、その最中に鼓笛隊長のニュース・ラインから連絡があった。
「おお、久しぶりだな」
「本当にお久しぶりで」
ニュース・ラインとはこれまで、封書でやり取りをしていたものの、言葉を交わしたのは久々である。実は一度、学園で演奏会を行う話が浮上した事があったのだが、例の『ラトアンの
「事務総長から話を聞きましたが、御苑で行進が行われるとか」
「ああ、そうだ。ケルメス大聖堂と同じ規模だと考えて欲しい」
「ならば、行進用の曲が必要ですな」
「ああ。至急必要なんだよ」
音楽の話なので、会話も早いというか、弾む。こちらの意図を察してくれているおかげで話の展開が早いのだ。一度会って話そうとニュース・ラインにムズを向けると、明日そちらに行く形でどうですかと返してくれた。俺はニュース・ラインと明日の夕方、黒屋根の屋敷で『御苑の集い』で使う曲の話をする事になったのである。
昼からの相場は、午前と打って変わって静かなものとなった。俺が仕掛けていないという要素もあるのだろうが、二日で倍以上になったことで、プレイヤーが皆引いてしまったのだろう。相場は一一〇〇〇ラントを二〇〇ラント程度上下する狭いレンジとなったので、一三〇〇〇ラント辺りに指値を置くと、さっさと両階段下にあるピアノ部屋へ入った。
ニュース・ラインと話ができる事が決まったので、相場よりも音楽の方を意識した事は否定できない。俺の中で順序があるならば、一にピアノ、二に相場、三が『御苑の集い」、最後に学園といった感じだ。練習曲で指を慣らし、「時代劇のコッペパン」やリストの「愛の夢」を弾いていると放課後の時間となったので、俺は慌てて学園図書館へ向かった。
しかしそれにしても、ピアノ部屋でのアイリの暴走はヤバかった。音程が全く合っていないのに、ガンガン歌いまくるアイリ。その姿にクリスどころか、トーマスもシャロンも明らかにドン引きしていた。しかしそんな事もお構いなしに歌って、満足気にニッコリと笑うアイリを見ていると、誰も何も言えなかったのである。
そこがアイリの不思議なところで、無鉄砲な部分があっても、何故かそれが許されてしまうのである。おそらくは決して他の人を傷つけるものではないからなのだろうが、それでも許されるというのは大きな得分だろう。また、それを本人が意識的に求めていない部分も、逆に許されてしまう要因なのかもしれない。
図書館に入ると、一番奥にあるいつもの机、いつもの椅子にアイリが座っていた。このような細かい部分まで設定に縛られているというのも、冷静に考えれば恐ろしいのだが、無意識の内にそう選ぶように組み込まれてしまっているものなのだろうから、どうしようもないだろう。一種のクセのようなものであるが、DNAと化しているとも言える。
俺はいつものように、向かいの椅子に座ると、昨日の話をアイリが楽しそうに話し始めた。笑顔のアイリを見ると、音痴に関しては気にも留めていないようだ。クリス達が微妙な顔をしていたのだが、それに全く気付いていないようである。ただ、アイリが機嫌よく話しているので、そのまま知らぬフリをしておくのが一番だろう。
「次はね。クリスとシャロンにも歌ってもらえるようにするの」
えっ! 自分が歌うのだけでは飽き足らず、人にも歌わせるつもりなのか。一瞬、クリスがすました顔をしながら歌っているのを想像してしまったが、それどころではない。アイリの毒牙が他の者に襲いかかっているような気がしたからである。これはいよいよヤバいと思ってしまった。
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