第三十八章 局面展開

503 仕手戦

 こちらが小麦相場に仕掛ける為に用意した資金約五〇〇〇億ラントは、『貴族ファンド』の出資金の倍に相当する額である。札の殴り合いでは絶対に負けない額だ。ただ、小麦相場という場に一五兆円という天文学的なカネを突っ込むなんて、現実世界ではまずあり得ないファンタジー。


 しかしこのエレノ世界がファンタジー世界なので、その部分については無問題なのだろう。何でもそうだが、勝負をする時には割り切りが肝心。俺は朝一から仕掛けるために昨日の夜、ザルツやエッペル親爺、ジェドラ父にファーナス、シアーズやワロスと改めて会合を開き、擦り合わせを行った。ただ会合の方法が斬新で、なんと魔装具を使った遠隔会議。


 これはザルツの提案で行われたもので、それぞれの魔装具を使って会議を行ったのである。要はネットを介したグループ通話のようなものを魔装具で実現したのだ。まさかこちらに来て、LINEやZOOMみたいな事をするなんて思いもしなかったが、わざわざ集まらずに会合を開いたというのが新鮮だった。


 それは皆も同様で、それぞれが驚きの言葉を上げていたが、ザルツが言うには魔塔に相談を持ちかけて実現したのだという。魔装具の通信サービスを提供している魔塔側の方は「魔法技術的には容易」として、提案して程なく実現できたのだという。ただ、ザルツのもう一つの提案である映像通信、つまりテレビ電話の方は、ハードルが高いらしい。


 しかしよくもまぁ、そんな事を魔装具でやろうなんて考えたよな。ザルツが現実世界向きの人間である事を改めて実感した。会合では目標の相場値や、その値に押し上げる為の手順。資金的なスキームなどについて話し合われ、様々な手筈を決めた上で、今日の日を迎えたのである。相場が開く九時が過ぎ、魔装具が光った。


「おい。どデカい窓が開いたぞ!」


 どデカい窓。要は値が飛んだのだ。平日初日の取引は先週の終値から始まるもの。ところが休みの間に新たな情報が入ると、売りや買いが殺到してしまい、一気に値が動く事によって終値とは全く違う値で取引が始まる事がある。その差、値の隙間の事を「窓」という。エレノ世界は現実世界で作られた世界観なので、相場の観念もそのままなのだ。


「おお、そうか。それで始値は?」


「七六〇〇ラントだ!」


 俺が入れた指値だ。先週終値四八四二ラントから値が一気に三〇〇〇ラント近く跳ねたのである。つまり終値の半値に達する巨大な窓が開いたということ。現実世界ではあり得ない、インチキ相場らしい豪快な展開だ。始値から一割上下したら取引がストップするような上品なルールなど存在しないのがエレノ相場。これにはエッペル親爺が興奮している。


「貴族達の入札は一気にふっ飛ばしてしまったぞ。あるのはお前の入れたものだけだ」


 普通、入札というもの、少しでも安く仕入れようとするので、高値で入れるやつは少ない。おそらく入れても五〇〇〇ラントまでだろう。ところが俺は七六〇〇ラントの指値を入れた。そこにジェドラ、ファーナスの両商会が売りに出したものだから、その小麦が七六〇〇ラントで買われたということ。これで小麦値はそのまま七六〇〇ラントとなった。


「あまりの値に、売りに出しているヤツがいる。今は八五〇〇ラントだ」


「じゃあ、八五〇〇ラントの指値も引っかかったのか?」


「お前、八五〇〇ラントどころか、八七〇〇ラントの指値まで刺さっているぞ!」


 刺さっている。事前に予約した値に相場が一瞬到達した事で、購入出来た事を指す言葉。今回の場合、相場が一瞬八七〇〇ラントを越えたので、俺の予約していた八七〇〇ラントの指値が引っかかったのだ。結果、俺は八七〇〇ラントで小麦を買った。ところが相場は八五〇〇ラントに下がったので、二〇〇ラントの赤となってしまったという訳だ。


 しかし思った以上に、相場が動いている。小麦価格急騰というより暴騰と言っていい相場の中で、興奮した一部のプレイヤーが手持ちの小麦を売りに出したようだ。プレイヤーそのものが少ないので、誰なのか大体は想像できる。売りに出したのは独立系商人やらカネが動かせる新興地主だろう。そりゃいきなり相場が五割増になったら、売りたくもなる。


「いやぁ、長年生きてきたが、こんな荒れ相場は初めてだぜ!」


 相場に携わる人間の血というやつがそれをさせるのか、自分が取引している訳でもないのに、何故か興奮しているエッペル親爺。その勢いのままなのか、エッペル親爺の魔装具は切れてしまった。興奮しているのは相場のプレイヤーだけではなかったという事か。長年、相場に携わってきた血がそれをさせるのだろう。


 興奮していると言えば貴族会議にまつわる話を伝えている各誌も同じで、今日発売の『蝦蟇がま口財布」』を除く三誌が、鼻息荒く号外を出している。その中で目を引いたのは『翻訳蒟蒻こんにゃく』の号外。紙面には「アウストラリス公、ランドレス伯と対談」「貴族会議開催に向け結束を確認」というタイトルが躍った。


 記事によるとアウストラリス公はランドレス伯の訪問を受け会談を行い、ランドレス伯の貴族会議開催の支持表明に感謝の意を伝えた。これに対してランドレス伯は「小麦問題について深く協議する場が必要なのは当然の事」と応じ、貴族会議の開催の為、最初に建議の声を上げたアウストラリス公の勇気を称えたというのである。


 これを受けてアウストラリス公が「アウストラリス派とランドレス派が固く結び、貴族会議の開催実現の為、広く呼びかけて行こうではないか」と返し、両派が結束して行動する事を確認したと、記事は結んでいた。しかしまぁ、なんという三文芝居なのか。まるで突然話が進展したように書ける『翻訳蒟蒻』の記者の文才には、驚くやら呆れるやらだ。


 対して定期号の『蝦蟇口財布』は「エルベール公、御苑の集いに参加」という見出しで、エルベール派の動向をトップに持って来ている。クリス主催の『明日の小麦問題を考える御苑の集い』にエルベール公が参加することが明らかとなった。エルベール公はノルト=クラウディス公爵令嬢との縁から、出席を決めたとの事である。


 エルベール派ではレティからの情報通り、派閥ナンバー二のホルン=ブシャール候や高位伯爵家ルボターナのアルヒデーゼ伯も参加を表明。派閥有力者が領袖であるエルベール公と歩調を合わせた事により、貴族会議の建議におけるエルベール派の動向に、大きな影響を与えるのではないかと書かれていた。


 記事には、以前行われた『常在戦場』の臣従儀礼について、クリスを介して宰相閣下へ提案した一件が詳しく書かれていた。それによるとリッチェル子爵位の襲爵式の際、式典に参加していた『常在戦場』を見たエルベール公が、隣席に座っていたクリスに臣従儀礼を提案。クリスが橋渡しとなって宰相に伝えた事で、臣従儀礼が実現したと。


 そうした関係性から、クリスから招待を受けた以上、応えなくてはエルベール公爵家の名に恥じると公爵は述べたというのである。俺はエルベール公が参加名分をクリスとしたのだなと思った。義理があるから、義理を返す。文句があるかと言いたいのだろう。それはそれで、筋道として通っているのだから、まぁいいだろう。


 つまりはエルベール派が貴族会議の開催に呼応しない可能性について、『蝦蟇口財布』の記者は指摘したのだ。これはエルベール派内の派論が、アウストラリス派と歩調を合わせない方向性に向かっている事を示唆している訳で、貴族会議開催に賛成する陣営には面白くない記事だろう。ただ、こういう事がズバリと指摘できる点は大したもの。


 一方、『無限トランク』の号外は「トーレンス内府、貴族会議の建議に画さず」「ウェストウィック公、中立を宣言」「ステッセン伯、宰相閣下の支持を表明」という、国王派三派の動向を文字通り三本柱とした記事。いずれも貴族会議に賛成しないという動きだ。これはクリスの次兄で宰相補佐官であるアルフォンス卿からの情報と合致している。


 トーレンス内府、即ち内大臣トーレンス候は内大臣職が貴族会議の建議を受け取る職にあるとして、これに与しない事を派閥幹部会合で明らかにした。これを受け派閥会合では、派閥領袖であるトーレンス侯の意向に歩調を合わせることで一致。トーレンス派は貴族会議開催の建議に加わらない事が明確となった。


 また国王派第一派閥ウェストウィック派の領袖ウェストウィック公は拡大派閥会合で、マティルダ王妃が実姉である関係から政治案件に関わることはそぐわないと、貴族会議の是非について中立を宣言。これによってウェストウィック派では派内を中立の方向性で集約させる方向で意見が纏まった。即ち貴族会議の建議に加わらない事を決めたのである。


 国王派第三派閥スチュアート派の代表幹事ステッセン伯は宰相府を訪れ、宰相ノルト=クラウディス公クラウス と会談し、宰相に対して支持を伝達。スチュアート派が派閥として貴族会議開催の建議に賛成しない事を明言した。このステッセン伯の表明に、宰相は謝意を伝えた上で、「共に小麦問題へ協力して対応しましょう」と話したとの事。


 国王派三派が揃って貴族会議の建議に賛同しない事が明白となり、当初の想定通り、宰相派と合わせて全貴族の半数近くが貴族会議開催に賛成しない情勢が確実となった。加えて貴族派第二派閥の領袖であるエルベール公や同派の派閥幹部が、クリスの主催する御苑の集いに参加を決めるなど、予想以上に貴族派が切り崩されている状況が顕著に見られる。


 その辺りの事は『小箱の放置ホイポイカプセル』の号外にも詳しく載っていた。「バーデット候、『御苑の集い』に出席を表明」「ドナート候も『御苑の集い』参加へ」。『小箱の放置』は貴族派第三派閥バーデット派を率いるバーデット候と、第五派閥ドナート派を率いるドナート侯の『明日の小麦問題を考える御苑の集い』への参加を伝えた。


 その中で派閥領袖に留まらず、中間派の指導者であるボルトン伯や、スチュアート派のステッセン伯。エルベール派のリュクサンブール伯やバーデット派のカーライル伯、ドナート派のトミタラット伯などといった高位伯爵家ルボターナの『御苑の集い』への出席表明が相次いだ事で、参加者が雪崩式に増えていると指摘。


 宰相ノルト=クラウディス公の令嬢が主催している事情も相俟って、今は『御苑の集い』は貴族会議開催の建議の是非に、大きな影響を及ぼしかねないと記者は解説している。アウストラリス公が貴族会議の開催を建議しておよそ半月。日程的には中盤戦に入ったところで、徐々に賛成派と反対派、両陣営の状況が見えてきた。

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