378 忘却の彼方

 俺はメガネブタと見たこともなければ会ったこともない。話したこともないので、声すら知らない。唯一見たのは似顔絵だけ。そんなメガネブタについて、俺が思うことは特にない。知らない人間のことをどうこう思える人なんていないだろう。要は言いようがないのである。そんな俺がこの男に求めていた事は、デマ記事の撤回だった。


 しかしメガネブタ、モデスト・コースライスという人物は、俺の要望を跳ね返した。いや、そうではない。要望すら聞こうとすらしなかった。だから俺とメガネブタが対決する形になるのは最初から分かりきっていた話で、いわば必然の流れ。だから俺もリサも徹底対決を志向していた。しかしメガネブタの意識は、と言えばそうではなかった。何故か?


 それは自身が専属記者として契約していた業界一位の月刊誌『翻訳蒟蒻』という存在が、デタラメな記事に対する異論反論を実質的に封じてきた事によって、メガネブタが守られていたからである。メガネブタを守る外殻。それが『翻訳蒟蒻』を出版する業界最大手のノルデン報知結社であり、ノルデン報知結社のオーナー家、イゼーナ伯爵家の威光だった。


 しかし長年の専属記者生活で、自分が外殻に守られているという自覚が薄れてしまったのかもしれない。あるいは名物記者としての自信、高い利益を叩き出しているという自負が、その目を曇らせてしまったのかもしれない。いずれにせよ、硬い外殻に守られた中でデマ記事を書いていた。ところがリサは、メガネブタのその外殻を割りに行ったのである。


 『週刊トラニアス』メディアを立ち上げて衆目を集め、『翻訳蒟蒻』の従来の読者を剥ぎ、その外殻を割ったのだ。俺が第三民明社を買収し、月刊誌『小箱の放置ホイポイカプセル』を隔週刊として、加勢した形になったことも外殻が割れた一因となったのだろう。しかし、それでもメガネブタは背後を信じたのだ。


 ところが外殻は、利益よりも害悪が大きいと見做した瞬間、メガネブタを躊躇なく切り捨てた。メガネブタは『翻訳蒟蒻こんにゃく』の女編集長セント・ロードに切られ、『翻訳蒟蒻』を発行するノルデン報知結社のオーナー、イゼーナ伯爵家に切られたのだ。メガネブタは自身の背後がいなくなったことで、己の立場を初めて認識したのだろう。


 自身の保身の為に助手のセント・ロードを切った自分が、いとも簡単に切られたわけだ。日頃、切れ切れというヤツは真っ先に切られる運命なのである。メガネブタもその例外ではなかった。メディアスクラムで外殻が破られ、口が封じられてメディアリンチを受ける。かつて己がやっていた事を自分自身がやられて、どのような心境であっただろうか?


 恐れをなしたメガネブタは家族を引き連れて逃亡し、親族諸共囚われた。その身柄は教会に移され、公衆の面前で一族ごと裁きを受ける事になったのである。その物語、転落するメガネブタの物語を見たい知りたいという民衆心理が、発行部数を押し上げている。デマ記事を売りにして金儲けをしたツケが、こういう形で回ってくるとは、なんという皮肉。


「とにかく売れるのよ。メガネブタは」


「分かりやすいテンプレキャラだからな」


「そうそう。目の敵にするには丁度いい相手なのよ。偉すぎず弱すぎず」


 人間というもの、あまりにも地位が高い者や強い者、あるいは自分よりも弱すぎる者を見たがらない傾向がある。メガネブタは『翻訳蒟蒻こんにゃく』の名物記者だったが、地位が高すぎる訳ではないし、有名人であったので弱すぎる訳でもなかった。つまりは民衆の吊し上げのターゲットとして丁度良い人間だったのである。


 そこにリサがつけ込んで炙り出し、火を付けると皆が喜んでタカりに来た。『翻訳蒟蒻』や出版元のノルデン報知結社、オーナーであるイゼーナ伯爵家が切り捨てにかかると、それに拍車がかかったのである。民衆は誰もメガネブタの声を聞かず、恐れをなして逃げ出したメガネブタを嘘つき卑劣漢と言って罵り、一方的な裁きを望んだ。


 誘導したのはリサだが、裁きを望んだのは他ならぬ民衆。そして同業他社はメガネブタをメディアスクラムで追い込み、メガネブタの口を封じてメディアリンチし、そして今は死体蹴りに勤しんでいる次第。最終的には新規読者の獲得と収益を上げる為に血眼になり、骨の髄までしゃぶり尽すのあろう。こうした部分、この構造はどの世界でも変わらない。


 だからメガネブタとテクノ・ロイドとその一族の裁きがセルモント広場で行われて五日経っているのにも関わらず、第三民明社、王都通信社、トラニアス伝信結社、王国配信舎のノルデン報知結社を除く出版四社は、引き続き総力戦でメガネブタの記事に傾注し、報道合戦を続けているのである。需要と供給の論理が成立しているから記事にしているのだ。


 『週刊トラニアス』の方はメガネブタの裁きに対する『常在戦場』の面々や著名人、読者の感想を全面に載せ、『小箱の放置ホイポイカプセル』は裁きの一日を巻頭で特集した。一方『蝦蟇がま口財布』は刑を減免された一族のインタビュー記事を、『無限トランク』はメガネブタの裁きを最前列で見ていた人々の話を掲載したのである。


 いずれもメガネブタの裁きに対して相当な紙面を割いているのだが、俺から見れば『週刊トラニアス』や『小箱の放置ホイポイカプセル』は抑制的、『蝦蟇がま口財布』と『無限トランク』の方は扇動的だと思えた。その事をリサに話すと、俺の各誌への分析に対して、全く違った観点から解説してくれた。


「発行部数によるのよ」


「発行部数だって?」


「そう。『週刊トラニアス』が一位、『小箱の放置ホイポイカプセル』が二位じゃない。だから後続の月刊誌はそれだけ無理をしないと、って話じゃないの」


 えっ? そうなのか? メガネブタの一件は、トラニアスの出版業界の地図を激変させたようだ。新興の『週刊トラニアス』がいきなり発行部数の首位を走り、業界四位だった『小箱の放置ホイポイカプセル』が二位に躍り出たのである。代わりに業界二位であった『蝦蟇がま口財布』三位に、三位だった『無限トランク』が四位に後退したという。


「『翻訳蒟蒻』は?」


「最下位よ。だってメガネブタの波に乗り遅れたのだから」


 世の中というもの残酷なものである。長年業界首位を走っていた『翻訳蒟蒻』がなんと最下位の五位に転落していたのだ。名物記者だったメガネブタのデマ記事が指弾された上に、擁護に回ったが故に特集が組めず、メガネブタが断罪された事によって評判を落とした結果なのだという。車椅子ババア、イゼーナ伯爵夫人の醜聞も影響したようだ。


「これからノルデンの出版業界も変わるわ。裏打ちのない記事を出したらメガネブタのようになるから」


 リサは言った。確かに家族どころか一族ごと、社会全体から激しくリンチされるような光景を目撃したら、間違いなく身構える。いや、恐怖で足がすくむのではないか? メガネブタがどうなろうと気にならないが、裁きに至る追い詰められ方と、裁きの後の扱いのエゲツなさには流石に引いてしまう。


 これが現実世界ならば、カネさえ払えばおしまいな訳で、遥かに楽と言えよう。この一件を受けて、ノルデンの出版業界が今後どうなるのかは分からないが、確実なことはメガネブタはもういないということ。そもそも会ったこともない人間でもあるし、特段気にすることもない。メガネブタは話と共に忘れ去られるだけだろう。俺も忘れるだろうし。


 ――レティは今日も図書館にやってこなかった。アイリによると昨日も来ていなかったということなので、四日連続顔を出していない事になる。こんな事は今のような関係になってから一度もない。『プロポーズ大作戦』の失敗が、正直ここまで尾を引くとは思っても見なかった。俺はごまかしついでに「珍しいね」とアイリに話す。


「今日は屋敷に行きましょうよ。レティもいないし」


 アイリからの提案に、俺はすぐさま乗った。図書館でレティの事を考えるよりは、よっぽどいい。よし今日はピアノを弾こうと、笑顔のアイリと一緒に黒屋根の屋敷に向かった。魔装回廊を通って屋敷に入った俺達は、そのまま館の中に入る。俺がいつものように、両階段の下にあるピアノ室に向かおうとしたとき、アイリに呼び止められた。


「グレン、執務室に行きましょう」


 いつもより一オクターブ低い声。ハッとなって後ろを振り向くと、先程までの笑顔とは打って変わって厳しい表情となっているアイリがいた。


「行きますよ、グレン!」


 固まっている俺を尻目にアイリは一人階段を上り始める。俺は慌てて追いかけた。ヤバい、なんだ急に変わるこの感じ。アイリの後ろについて俺の執務室に向かう中、何故かアイリの育ての母ラシェルから聞いたアイリの実母、公爵令嬢セリアの話を思い出していた。話に聞くセリアは意志が強く激情家だった。娘もアイリもそれと似ているところがある、と。


「グレン、開けて」


 いつもよりも言葉遣いが荒いアイリの指示に従い、執務室のドアを開けると、つかつかと中に入ったアイリはどっかとソファーに座った。俺は慌てて対面に座る。


「グレン。話さなくてはいけないことがありますよね」


「それは・・・・・」


 俺はとりあえず誤魔化してみた。しかしそんなものは今のアイリにはまるで効かない。


「レティシアの事です。聞きましたよ、レティシアから。どうしてそんなことを!」


 アイリは語気を強めた。どうやらレティシアから話を聞いたようである。レティはどんな感じだったのか聞きたいのだが、今のアイリを見るに、聞くことを許すような感じではない。俺はとりあえず本当の話を最小限に話すこととした。


「レティも夫人になったことだし、そろそろ相手を紹介しなきゃいけないかな、って思って」


「そんな事をやられてもレティシアが迷惑です!」


「いやいや、それを承知の上でやったんだよ」


「違います! いちいち人の事を考えて行動するようなグレンではありません! それぐらいの事、お見通しですよ!」


 俺が人の事を考えないと断言されてしまった。当たっているだけに反論はできない。しかし俺の事をよく見ているよな、アイリは。しかしこの修羅場は一体なんなのか? この場をどう切り抜ければ良いのか、俺は全く見通せなかった。

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