367 『もう一つの世界』

 俺が先週にケルメス大聖堂にやってきたのは休日二日目のこと。目的はもちろん大聖堂にある図書館の一番奥にあるケルメス宗派の長老、ニベルーテル枢機卿が許可する者以外の立ち入りが禁止されているエリア。


 その書架にあるのは魔導書と呼ばれる書物。正確には日本語で書かれている書物だが、その書物を読むためである。その書物を読ませてもらう代わりにニベルーテル枢機卿から書籍の分類を頼まれたのだが、何度か通っているうちにかなりの蔵書が分類できた。


 昨日は一日、アイリと一緒に過ごしていた。昼はロタスティで一緒に食事をして、そこから黒屋根の屋敷で俺がピアノを弾きながら、アイリが歌うという二人だけの音楽会。アイリの音痴ぶりは相変わらずだが、楽しそうに歌っているので、それはそれでいいだろう。それが終わると、俺の執務室でくつろぐという、安上がりなデートを楽しんだのである。


 執務室のソファーに座ったアイリはドシラド村に小麦が届いたことを本当に喜んでいた。それはこの前の食事会でも言っていた事だったが、本当に嬉しかったようである。クリスがこれから更に厳しくなるという見立てを話していたのを聞いて、クリスティーナが言うのだから間違いがない、その前に動けて良かったと思ったそうだ。


 そんなアイリにケルメス大聖堂に行くことを告げたのはロタスティの個室で夕食を摂ったとき。この話を切り出した際、一瞬だけ何とも言えない微妙な空気になってしまった。ケルメス大聖堂の図書館に自分が立ち入れないことをアイリは知っている訳で、俺がそこに行くということは、自分が同行できないからである。


 事実上、明日はダメだよと告げているのに等しい訳で、アイリからすればつまらないのは理解できる。しかし、アイリの束縛は段々キツくなっているのではないか? 佳奈からはそういったものを一切感じたことはない。それだけアイリが俺の事を思ってくれているからなのだろうが、ゲームでは気付かないアイリの姿。それだけ情が深いのだろう。


 ケルメス宗派の創始者にして、俺と同じく現実世界にやってきたジョゼッペ・ケルメスは、その著作を日本語で残していた。それを蔵書目録で知ったのだが、その中の一冊でどうしても見たかった『もう一つの世界』という本が見つかったのは昼過ぎの事だった。先週、一日がかりで調べたのだが見つからなかったのだが、ようやく見つけることができた。


 見つけられなかったのには理由がある。本棚の奥に紛れていたのだ。書架に並んでいる本をガバっと抜いてようやく後ろにある本の存在を知ることができた。その内の一冊がこの『もう一つの世界』。タイトルを見ても分かるように、こちらの世界ではない話。ケルメスや俺が住んでいた現実世界の話を書いているのは、容易に想像ができる。


 俺は興奮しながら読み始めた。最初に書かれていたのは、ケルメスがこの世界にやってきたときの話。家で普通に寝ていた自分が目を覚ますと、こちらの世界でジョゼッペ・ケルメスになっていたとの部分は、見事に俺の話と同じ。しばらくするとジョゼッペ・ケルメスの記憶が自分の記憶と一体化した部分まで同じだった。


 ジョゼッペ・ケルメスの現実世界での暮らしぶりも書かれていた。電車で通勤する話や、飛行機で世界を飛び回る話。数少ない休日には車を乗り回して旅行する話やテレビやレコードに囲まれた生活。電話やテレビ、ワープロやファックスなどの描写もある。確かに俺が知っている世界ではあるのだが、今よりも三十年くらい前の話がする。


 というのもCDではなくレコードだし、今はワープロ専用機なんてものはない。それにネットや携帯、スマホやタブレットといったものの話が全く書かれていないからだ。特にファックスの部分。ファックスを送り合うことで仕事が成立しているなんて書いているが、そんなもの二、三十年前の話。今だったらメールやメッセで済ませているだろう。


 本当に何かズレているケルメスの話。先週読んだケルメスの著書『この世の定め』を読んだ際にも思ったことだが、ケルメスは既に仕事をリタイアした六十代の人物で間違いないだろう。俺が二十一世紀に生きた人間ならば、ケルメスは二十世紀に生きた人間。本に描かれている話には、俺の世代と親世代ぐらいのラグがある。


 読み進めるとケルメスの心境が綴られている。引退後、何をやることもなく老後の暮らしをしていたところ、いきなりこの世界に飛ばされた。若い体を得た自分は、それまでの人生とは違う第二の人生を歩む事ができた。そして仲間と共に現実世界に戻る機会を得たのだが、戻ったところで余生は限られているので、この世界に残る決断をしたと。


 仲間と共にということは、ケルメスの回りにケルメスと同様、現実世界からエレノ世界に迷い込んだ人間がいたという事なのだろうか? 確かに俺の回りにもコルレッツという転生者はいた。だからケルメスの回りにそういう人間がいてもおかしくない。しかし一人でケルメス宗派を立ち上げたのではなかったのだな。


 ケルメスはエレノ世界に残る決断をした心境を綴っている。自分は退職したので現実世界では終わった人間だが、こちらエレノ世界では大きな可能性があるので、それに賭けてみたい。現実世界に残した妻や子供には悪いが、向こうには家も財産もそこそこあるので、自分がいなくなっても家族が困ることもないだろう。


 現実世界には全く未練がない、とハッキリ書かれているのが寂しい部分である。ケルメスはこう書くことによって、家族らの未練を断ち切ろうとしたのかもしれない。というのも伝わるところによると、ケルメスは妻帯することもなく世を去っているのだから。その事から考えても現実世界にいる家族が影響を及ぼしているのは間違いがない。


 そして俺が一番知りたかった、現実世界に戻る機会についても詳しく書かれていた。まず必要な事は「達成」。自身が定めに従い、この世界で成すべきことを達成すると道が開けるというのである。この話、以前ニベルーテル枢機卿が言っていた「この地にやって来られた魂は、役割を果たすとお帰りになる」そのもの。


 「達成」が行われると、昼間にも関わらず夕焼けのように空が真っ赤に染まる。そして満月の夜、辺りが突然白いもやがかかり、空から見た自分が知る世界が眼前に広がってゆく。前に踏み出せば戻ることができると確信したが、空から見た風景で、生きて帰られるかの自信がなかった。仲間は踏み出したが、自分は怖くて踏み出せなかったと。


(こ、これだ!!!!!)


 俺が待っていたもの、探していたものがこれだ! この記述を探していたのだ。今からおよそ七百年前、現実世界から飛ばされてこのエレノ世界に生きた人間がいた。その人間は現実世界を目の前にしたとき、その世界に躊躇なく飛び込んだ。しかしケルメスはそれができなかった。生きて帰られる保証はなかったし、自身の余命も短かったから。


 俺が今まで調べてきたこと、見てきたこと、聞いてきたことが繋がった。『商人秘術大全バイブル』を手にして鍛錬を続けた事も、無理をして通う意味のない学園に入学した事も、学園図書館に籠もって毎日本を読み続けた事も、アイリやレティ、クリスやリサと帯同してノルデン王国を回った事も、全てが繋がったのである。


 今までやってきたことが無駄でなかった事が実感できる。書いている意味が分かるのだから。ケルメスが言う「空から見た自分が知る世界が眼前に広がっていく」という部分は、まさにクラウディス地方にあるシャダールの二重ダンジョンで、クリスと共に岩場の隙間から見えた東京の光景と同じ。あの時、いくらナイフを突き刺しても隙間は広がらなかった。


 だが、ケルメスの記述によれば「達成」。つまりゲームが終われば空が真っ赤に染まり、それを合図として満月の夜に現実世界のゲートが開かれるという話になる。だがそのゲートの先に飛び込んだからといって、生きて帰られるかどうかの保証はないというのはケルメスの書く通り。つまり生きて帰られたかどうかは分からないのである。


 そのゲートを越えて飛び込んだというケルメスの仲間がどうなったのかが分かれば別なのだが、その人物が誰なのかを確認することはできないし、仮に知ったとしても俺が現実世界にいないのだから確認しようもない。つまり生きて帰られるかどうかは分からないが、帰ることができるルートは分かったということだ。


 これから俺が成すべきことは小麦暴騰を封じ込め、宰相失脚を阻止してゲームイベントを全てクリアすること。これができれば、俺の目の前に現実世界に戻る道が開けてくる。生きて帰られるかどうかの保証がないというのは不安だが、それを言っている場合ではない。これで佳奈とも会える。


 だが、アイリとクリスとは・・・・・ それは今、考えないようにしよう。


 ――俺が月刊誌『翻訳蒟蒻こんにゃく』の最新号を読んだのは平日初日の朝、立木打ちを始める直前だった。リサが例によって『常在戦場』の調査本部長トマールから早刷版を入手していたのである。しかし、どうやって仕入れてくるのだろうか。


 まぁ、それは別として、雑誌をひと目見て分かったのは「お焼香状態」。雑誌からは負け戦モードが漂っていた。誌面は当たり障りのない記事で埋め尽くされ、ノルデン出版界の潮流に我関せずと言わんばかりに、日和見を決め込んでいたのである。


「『翻訳蒟蒻こんにゃく』の編集方針について」


 『翻訳蒟蒻』の編集部は誌面においてメガネブタのデマ記事や、車椅子ババアのケルメス大聖堂の一件には一切触れず、わざわざ・・・・巻末を割いて、雑誌の編集方針を説明するという無様な方法を採ったのである。またこの文自体も酷くて「責任はひとえに文を書いた記者にある」「記事に瑕疵があるのは記者の問題」だと責任逃避の一点張り。


 挙げ句の果てには「編集部はある面、記者の持ってきた記事を載せただけの被害者」であると主張する始末。メガネブタ、モデスト・コースライスもクズならば、女編集長のセント・ロードもクズ。クズからはクズしか生まれないし、クズしか生み出さないことを己の行動によって証明している。そして記事の最後にはこう綴られていた。


「この度『翻訳蒟蒻』編集部は、モデスト・コースライスとの専属記者契約を解除しました。今後モデスト・コースライス執筆の記事への返答は差し控えさせていただきます」

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