363 転生者ケルメス
俺は翌日もケルメス大聖堂の図書館に顔を出した。昨日と違って朝から入る。というのも閉館間際、ケルメス著作の本『この世の定め』が見つかったからだ。こちらの本はどちらかというと哲学書じみた本で、俺が苦手とするジャンルである。だが読み進めている間に、今のエレノ世界に通じる重要な事が書かれているのに気付いた。
ムバラージク王朝の王権は神によって付与されたものであり、何人たりとて侵すことは許されないと提唱した内容。混沌とした世を導くため、神はムバラージク王朝に権限を付与したと。確かこれは「王権神授説」とかいうヤツ。つまりケルメスは現実世界にあるこの考え方をエレノ世界に持ち込んで、当時の王権の後ろ盾を得たのである。
ノルデン王国においてケルメス宗派が事実上、国教という地位を占めるようになったのは、この王権神授説が王朝にとって都合がよいものだったからに他ならない。おそらくケルメスは、王朝からの政治的な庇護を受ける為に王権神授説を唱え、我が身を守ったのだろう。それは異世界に生きるケルメスにとって、安全保障だった事は間違いない。
ケルメスと同じような形で現実世界からこの世界にやってきた俺にはその気持ちが分かる。ケルメスがやってきた時代は混乱と混沌の時代だろうから、今の時代と違って、まずは我が身の安全確保が第一だったはず。だからケルメスは王朝に都合の良い理論を持ち出して、我が身の安全を確保した。そんな事を考えなくてもいい時代に来た俺の方がずっと恵まれている。
我が身の安全保障から唱えた王権神授説によって、王朝の庇護を受けたケルメスの権威は揺るぎないものとなったのであろう。ケルメスは現実世界に帰らなかった。考えてみればどんな人間もさっさと引退、さっさとご隠居を強いられる現実世界に比べ、権威が確立した状態ならば、こちらの世界の方が暮らしやすいかもしれない。
また本には現実世界におけるケルメスの暮らしぶりが描かれていた。現実世界でのケルメスは仕事が多く、家に帰る時間は夜中なのは当たり前。休日返上、粉骨砕身で働いた。必死に働いたおかげで幹部に昇格したが、その代償として二人の子供に接触する機会もなく、退職後はもぬけの殻のようになってしまった事が書かれている。
これをケルメスは人生の痛恨事、大いなる失敗であると捉えていた。そのため収入や社会的地位の上昇にのみ拘ることをやめ、働く意味や意義は家庭にあるのだから、家族に重きを置いた暮らしをするべきだと本の中で説いている。仕事に打ち込む気持ちは十分に理解できるが、その代償は大きい事を強調しているのは、己の歩みを見てのことだろう。
しかし、この本を読んで分かった事だがジョゼッペ・ケルメスは六十代の人物であるようだ。しかも大手企業でそこそこの地位に昇るところまで勤め上げた人物。収入も相応にあったはずだ。ところがそれはケルメスの心を満たすものではなかったようである。家族と疎遠なままリタイヤした老人、それがケルメスのようである。
子供との接し方については似たようなものだが、俺はケルメスほど真剣に働いている訳じゃない。責任ある役につくこともない中で、なんとか収入を確保する暮らしをしているのだから。しかしケルメスの働き方、俺の親世代のそれだよな、明らかに。親父もケルメスのような働き方をして、退職後、程なくしてあの世に行った。
そんな親父のような末路を考えれば、ケルメスは幸いだったのかもしれない。本人が言うには現実世界で「抜け殻」だったものが、こちらの世界に来て我が身を振り返ることができた上に、もう一花咲かせた形となったのだから。それが『この世の定め』というのであれば、転生者ジョゼッペ・ケルメスにとって天佑と言うべきだろう。
――平日初日の朝、リサと共に鍛錬場で鍛錬していた。リッチェル子爵領やドシラド村に回ったのと、帰ってきてからも鍛錬どころではなかったので、出発前から十日程度も体を鍛えていない状態。一昨日から始めたとはいえ、体の感覚が戻らず、日頃の三分の一しか打ち込みを行っていない。それ以上すれば筋肉痛が襲いかかってくる事は明白だからである。
「グレン。まだセーブしているの?」
「当然だろ。安全第一だ」
リサに挑発されても方針は変えない。筋肉痛に襲われたら授業どころではなくなるからな。それにこっちはピアノの方の指の動きもイマイチで困っているんだ。鍛錬も練習も間が空いたら元に戻すのが本当に大変。一週間ぐらい体を慣らしてから、本格的なトレーニングをするしかない。抑え気味に鍛錬する俺にリサが言ってきた。
「明日発売の『
「明日か・・・・・」
そういえば『
「売上が好調なのよ。四大誌の中でトップなのよ、『
「そうか!」
それは良かった。俺が言ったやり方で売上が上がるのかと、編集長のフロイツが不安そうにしていたからな。
「でも発行部数は『週刊トラニアス』が一番なのよ」
胸を張るリサ。気持ちは分かる。気持ちは分かるが・・・・・
「だってタダだもん。当然じゃないか」
「えー。そんな言い方するぅ」
俺の言い方に力が抜けたようだ。そりゃ印刷して片っ端から置いているだけなんだから、発行部数はいくらでも伸ばせるというもの。その代わり、伝達する力は有料誌よりもずっと上だがな。趣旨も、評価するところも全く違う。今日もセーブしながらの鍛錬を行った俺は、風呂に入ってから久々の授業に臨んだのである。
週が変わって登校すると、学園の雰囲気も変わっていた。先週のように生徒から取り囲まれて問いかけられる事はない。やはり掲示板に張り出した見解が効いたのだろうか。教室でフレディとリディアに聞くと、どうやらその通りだったようである。二人によると、張り出された日には、どこも人だかりができたらしい。
「グレンがいきなり消えるからビックリしたわ」
「もう来ないかと思ったよ」
「いやいや、俺もどうしようかと思って逃げたんだよ」
心配してくれるリディアとフレディに弁明した。本当にその通りなのだから嘘偽りはない。
「あんなに強いグレンが逃げ出すなんて」
「俺、そんなに強くないから」
リディアは俺のことをそう言ってくれるが、それはゲーム知識を駆使したチートだから安心してできるのであって、そんなものがなければ単なるチキン野郎に過ぎない。買い被ってもらっても困る。
「俺がいない間、何かあったか?」
「小麦が上がったって騒動になっているよ」
ああ、それは知っている。相場を確認したら一発だ。今日も先週に比べ一〇〇ラント上がって一四〇〇ラント。他都市に比べ圧倒的に取扱量が多い王都でこの状況。他所はきっと更に上がっているだろう。
「チャーイルの街は大丈夫なのかな・・・・・」
「フレディ・・・・・」
「大丈夫だ、心配するな」
俺が言うと、二人が「えっ?」という感じで俺を見てきた。
「どうして?」
「小麦を持っていったからだ」
「え、え、えええええ!」
これには二人が仰け反った。リディアが聞いてくる。
「それでいなかったの?」
「ああ。デビッドソン主教からの相談を受けて、チャーイルの街に行っていたんだ」
「グレン・・・・・ 済まない・・・・・」
フレディが頭を下げてきたので、俺は言った。
「お前にそれをさせたくないから、デビッドソン主教は封書でやり取りしていたんだよ。だから下げなくてもいいって」
「父さんが・・・・・」
「小麦の暴騰はフレディのせいじゃないからな」
「やっぱり、お父様は偉いわ。グレンの言う通りよ」
フレディに向かって元気にいっぱいに話すリディア。リディアはデビッドソン主教の気持ちを熱っぽく語った。殆ど外していないのは、デビッドソン主教を敬愛しているからだろう。愛の力というものは大きいものなのだと、妙に実感する。黙って話を聞いていたフレディは、大きく頷いた。
「グレン、動いてくれてありがとう」
俺は「ああ」と言って、フレディからの礼を素直に受け止めた。これでいい。いつの日か、デビッドソン主教の気持ちを実感できる日が来るだろう。今は父親の心境を想像するだけで十分だ。俺なんかフレディの年齢の時には、そんな事を考えもしなかったのだから。フレディは俺よりもずっと前にいる。十分に大人だよ。
――いつものようにアーサーと一緒に昼を食べて教室に戻ろうとすると、ディールに声を掛けられた。ようやく落ち着いたなと言われたので、やっとだよ、と応じると、ディールが苦笑している。
「いやぁ、やっぱりお前はツワモノだと思ったよ。相手が
ん? 「
「いやぁ、クラートがしこたま、やられたんだよ」
「クラートが!」
ディールの従妹クラートが、車椅子ババアにやられていた? あ! そう言えば聞いたよな。ババアが貴族子女を躾ける役だって。確かレティの遠縁エルダース伯爵夫人と双璧とだか。
「だから
あんなババアに躾けられたってロクな奴にはならん。そうか、クラートは反発してたのか。そりゃ、正しい道を歩むわ。
「だからクラートはまともなんだな」
「おいおい」
「あんなのの言うことを聞いたって、キチンとした人間になるはずがないじゃないか。暗にニベルーテル枢機卿からダメ出しされてんだぞ」
ディールが一瞬、ギョッとした。
「いや、お前枢機卿猊下と話せる立場だってのもビックリだが」
「オルスワードとの決闘の様子を知りたいと、枢機卿から依頼があったんだよ」
「あの決闘か!」
俺はディールに概要を話した。オルスワードがその昔封印された古代魔法を使った事に関して詳しく知りたいとニベルーテル枢機卿が仰られた事や、俺が状況を話したものをフレディが纏め、枢機卿に報告書を提出した事である。これにはディールがビックリしていた。
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