324 マルレーネ夫人

 ノルデン国王フリッツ三世とマティルダ王妃との間には、成婚より十年近く経つのにも関わらず子宝に恵まれなかった。その為、心配した国王の側近たちは王家の血を引く適齢期の女性を探し出し、側室とするように進言した。この女性がアズナプール子爵家の息女として生まれたマルレーネ夫人である。当初、親族らを含めて国王の側室話には反対した。


 これは権門の一つであるウェストウィック公爵家との敵対を恐れたからで、恐れるのはむしろ当然の事であろう。そんな親族や同級生の反対を最終的に押し切ったのは、他ならぬマルレーネ夫人その人だった。マルレーネ夫人は国を憂い、自身が側室となって国が救われるのであればと、フリッツ三世の側室となる決断をしたのである。


 このマルレーネ夫人の側室話を強力に後押ししたのは、なんとウェストウィック公ジェラール二世。マティルダ王妃の実父で、学園舞踊会で問題を起こした正嫡殿下の従兄弟ウェストウィック卿モーリスの祖父だった。ジェラール二世は側室話を知るや、マルレーネ夫人の元を訪れフリッツ三世の側室となって欲しいと懇願したのだという。


 その前に側室になることを受け入れていたマルレーネ夫人は自分の心の内を公爵に打ち明け、意気投合したというのである。我が子が妃なのに何故だと思ったのだが、事実は複雑である。ウェストウィック公ジェラール二世は輿入れした娘に世子が授からぬ事を憂いており、この状況を危惧していた。国王に子がない事は、国にとって一大事。


 前国王フィリップ二世が急逝したことにより即位したフリッツ三世には兄弟がおらず、直系王族はスチュワート公親子のみ。つまり王位継承者は二人しかいなかった。このような状況下、王位継承者である世子の誕生は国の最重要事項となっていたのだが、王妃であるマティルダ陛下には懐妊の兆候がなかった。


 嫁いで十年近くになるのに懐妊の兆候がない。娘に重くのしかかるプレッシャーをいつも案じていた父のジェラール二世は、マルレーネ夫人の側室話に飛びついた形となったのである。ウェストウィック公ジェラール二世は反対する人々に対して、王室の置かれた今の状況を説いて説得に回ったのである。


 そしてなんと、マルレーネ夫人の後見人となってフリッツ三世への輿入れに力を注いだのだ。王妃の実父が側室の後見人となるという驚くべき話は、国を憂いたジェラール二世の行動であると好意的に評価され、マルレーネ夫人はフリッツ三世の側室となった。こうした形で国王の側室となったマルレーネ夫人は見事懐妊、やがて待望の世子が誕生する。


 これが兄王子ウィリアム殿下だ。この王子の誕生に国は湧き立つ。そして国王フリッツ三世より喜んだのが、王妃の実父でマルレーネ夫人の後見人であったジェラール二世であったというのだから事実は小説よりも奇なりである。世子ウィリアム殿下の誕生を喜んだジェラール二世は、その足でマティルダ王妃に拝謁して長きにわたる辛苦を労ったという。


 しかし実の父が自分の夫である国王、その側室の子の誕生を喜ぶ姿を王妃はどう見たのであろうか。親であるジェラール二世は娘の心労を憂いて起こした行動だったのだろうが、娘の夫、即ち婿に愛人を勧めるような行為な訳で、王妃の心は平穏なものではなかったであろう。そんなマティルダ王妃であったが、ウィリアム殿下の誕生から懐妊をする。


 生まれたのは女の子。リーゼルと名付けられた王女の誕生にジェラール二世は、ウィリアム殿下の誕生と同じく大いに喜んだ。生まれてきた王女の名もジェラール二世自らが名付けたというのだから相当なものである。側室から王子、王妃から王女が誕生し、王室も順風満帆と思われた。ところがここで悲劇が起こった。


 生まれたリーゼル王女は程なく亡くなってしまったのである。孫娘の突然の逝去にショックを受けたジェラール二世は病に伏してしまい、そのまま世を去った。王妃は実父を、マルレーネ夫人は後見人を失ってしまったのだ。それは後々、王室に微妙な影を落としていく事になる。


 そこでボルトン伯の話は終わったのだが、それ以降の話は聞かなくても分かった。マルレーネ夫人にエルザ王女が生まれ、その後マティルダ王妃はアルフレッド王子を授かった。嫁いでから十五年、待望の王子の誕生にマティルダ王妃の喜びはひとしおだっただろう。そして八年前にマルレーネ夫人が逝去。


 以降、アルフレッド王子を正嫡殿下と呼び習わす工作が強まって、今に至るのだ。これがフリッツ三世と家族の歩み。いわゆる「できちゃった婚」である俺には、十年近く子がなかったという国王のフリッツ三世とマティルダ王妃の気持ちがまず分からない。


 俺が式を挙げた時にはもう佳奈のお腹の中には裕介がいたのだから、子が出来なくて悩むという心境が理解できない。側室のマルレーネ夫人との間に子供が出来たことを考えると、単に営む回数が少なかっただけではないのか。俺達なんか営みの数から考えると、おそらく愛羅以外にも子供が出来た筈。


 長らく週三ペースだったのだが、経済的事情から避妊していたので、できたのは愛羅だけだというのが本当のところ。今でも週一なので、できないとは断言できないが、四十七歳という年齢を考えると流石に難しいのではないかと思う。まぁ、仮にできてしまっても育てる体力が俺ら夫婦にあるとも思えないが。


 そういえばこちらに来てから一度もしていないな。まぁ、子供だから当たり前なのだが、そう思っていたらアイリとクリスの顔がよぎった。いやいやいや、間違っても手出しなどしてはいけない。乙女ゲーム『エレノオーレ!』は全年齢対象。それはいくらなんでも禁断過ぎる。神聖不可侵なものだ。そんな事をしたら、それこそ帰れなくなってしまう。


 俺は邪念を払うため、立木打ちに集中した。妙な事を思い浮かべるようになったのは、ボルトン話を聞きまくったからだよな、絶対。一心不乱に立木を打つことに集中する。とにかく考えない、とにかく心を無にすること。これが重要。俺は奇声を発して、打ち込みを続ける。誰もいない鍛錬場で響くのは俺の声とイスノキの打撃音のみ。


「相変わらず一人で打ち込みをしているのね」


 突然耳に飛び込んできた聞き覚えのあるメゾソプラノの声。振り返るまでもない。クリスの声だ! しかしどうしてクリスが? 


「まだ学園は始まってないぞ」


「分かっているわよ」


 俺が言うと、ツンとして返してきた。臙脂えんじ色のポーラーハットに薄手の青、ティアブルーのドレスワンピースを着ているクリス。ドレス姿のクリスと違って可愛らしい。


「入学式から変わらないのね。裸足で打ち込みなんて」


 ん? 入学式????? そういや、あのときも式が始まる前まで打ち込みをしていたな。ていうか、なんでクリスは知っているんだ?


「だって、裸足の状態で叫びながら木を打ち続けていたでしょ。驚かない方がおかしいでしょう」


 俺の疑問にそう答えるクリス。そういや、俺もクリスを初めて見たのは入学式の時、鍛錬場の側をトーマスとシャロンを従えて歩いていた姿だったな、ゲームのまんまじゃんって思った記憶がある。そうか、あの時にクリスも俺を初めて見たんだ。偶然とはいえ、同じタイミングで見ていたとは奇遇だな。


「トーマスとシャロンはどうした?」


「お休みよ。今日は二人でお出かけしているわ」


 え? そうなの。まぁ、二人共基本的にずっとクリスの側から離れていないもんな。


「休みかぁ。だったら夏休み以来だな」


「そうね。クラウディス城でのお休み以来よ」


 そうだった、そうだった。夏休み、俺がノルト=クラウディス家の所領であるクラウディス地方のトスに商人刀の原材料である『玉鋼たまはがね』を仕入れに行こうと思ったら、クリスも一緒に同行することになってしまい、シャロンとトーマスも付いてくる羽目になったんだよなぁ。結果、二人共家族と会えてお休みをもらったんだった。あれ以来なのだな。


「それでクリスは?」


「忘れ物を取りに来たの」


「一人でか?」


 クリスは首を縦に振った。どうやら学園には、本当に一人でやってきたようである。しかし忘れ物を取りに来きたのに、どうしてチャコールグレーのトランクなんかを持っているのだ? いつもだったら、こういう荷物はトーマスが持っている。俺はクリスに言って『収納』でトランクを預かった。クリスに持たせてはいけないと思ったからである。


「ありがとう」


 何かクリスは嬉しそうだ。今日は一人だけだからか、いつもと雰囲気が違う。何というか、凄く可愛らしい。そんなクリスがお昼だからロタスティでもどう、と聞いてきた。もうそんな時間か。今日は始動が遅かったので、段取りがいつもよりズレていたのである。クリスにはロタスティで待っているように告げると、俺は急いで浴場に向かった。


「本当に誰もいないのね」


 ロタスティの個室で食べていると、向かいに座っていたクリスが驚いている。生徒がいないのでロタスティの中はガランとしているのだ。今、ロタスティを利用しているのは職員やファリオさんの第四警護隊の面々といった関係者ぐらい。そして俺ぐらいなものである。


「休み中に食べるなんて初めてだもんな。夏もそうだったけど、こんな感じなんだよ」


「じゃあ、グレンは冬休みの間、ずっといたの?」


「いや、それが・・・・・」


 クリスに正月の顛末を話した。学園が閉鎖され、運行業者も休みなので馬車も使えず、挙げ句に魔道士まで休むと言い出して魔装具までが使えない。おかげで『グラバーラス・ノルデン』に缶詰だったよ、と言うとクリスが大笑いした。


「ずっと『グラバーラス・ノルデン』にいたの」


「だって馬車も来ないんだから動けないよ」


 俺の答えがツボだったのか、クリスは更に笑う。そういや笑い上戸だったな、クリスは。


「よく知っているのに、どこか抜けてるのねグレンは」


「だってさ、俺の世界では、店が二十四時間年中無休で開いているのは当たり前なんだぞ」


「え・・・・・ 正月も?」


「もちろんずっと開いているぞ」


「どうやって開けているの?」


「いや、店員が普通に働いているから、開いているんだ」


 クリスが固まっている。どうやら正月に働いているという概念が理解できないようだ。


「それどころか、初詣のために電車まで走らせるんだぞ」


「初詣?」


 俺の言葉にクリスが反応した。そうか、ノルデンには初詣という習慣はなかったのだな。正月は家で静かに過ごし、ご先祖様に挨拶するのがノルデンの習慣。クリスには現実世界では正月になると神社という神殿に向かって願い事をするのだと説明すると、ご先祖様への御挨拶の儀式なのかと聞いてきた。


「ご先祖様への挨拶は仏壇でやるんだ。寺の仕事だ」


「寺? 神社じゃないの?」


 そうか。こっち側ではご先祖様への挨拶も願い事も全部教会でやるんだったな。


「先祖供養は寺で、願い事は神社。別なんだよ」


 クリスの顔を見るに、神社と寺の区別が理解できないようだ。こちらではケルメス宗派の教会があるだけで、他の宗教は存在しない。だから二つの宗教が並立している日本の状況について想像することができないのだ。人間というもの生まれ育つ中で身に付けた感覚から逃れる事は容易ではない。

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