317 ペンネームは「カナ」

 「カナ」。『常在戦場』の団長グレックナーの妻室で貴族出身のハンナ・マリエル・グレックナーに、『小箱の放置ホイポイカプセル』に載せる貴族情報の記事を依頼したのだが、掲載条件として記事の署名をペンネームにするように求められ、そのペンネームを考えるように頼まれて、咄嗟に思い浮かんだのが「カナ」だった。


 もしかするとグレックナーの妻室であるハンナに佳奈を見たのかも知れない。ダダーンも佳奈とは全く違うのだが、アスティン家でのダダーンの振る舞いに佳奈をか重ねたのは紛れもない事実。俺はどうしても佳奈と会いたいのだ。グレックナー家とアスティン家でハンナとダダーンを見た時、それを改めて実感させられたのである。


 俺がこちらの世界で目が覚める前。あの日の夜、俺が乙女ゲーム『エレノオーレ!』でオルスワードを攻略中、佳奈は寝るためにあくびをしながら、一人寝室に向かっていった。あれが佳奈との最後の瞬間。そこから六年。俺はそのゲーム世界で、別の人間として生きている。そして今、こんな訳の分からぬ仕事をやっているのだ。


 俺は現実世界に帰るためにモンセルから王都トラニアスにやってきた。帰るためにあれやこれやと手を打つ間に、何故かどんどんどんどん遠くなっていってるような気がする。もしかすると明後日の方向に走っているやもしれないが、もがいた結果これなのだからどうしようもないか。


 結局の所、ここまで来たらやり抜いて帰る道へと繋げるしかない。今はやり抜くことだけを考えよう。話が纏まったところで、フロイツにこの出版社の名前を見た時から気になっていた事を聞いてみた。


「民明書房と関係があるのか?」


 『商人秘術大全』の出版元、民明書房。現実世界でも確か同じような名を持つ出版社が知られていたような気がする。だが俺が聞いているのはエレノ世界の民明書房のこと。するとフロイツはあっさりと関係性を認めたのである。


「確か民明書房が二つに割れたのですよ」


 割れた? どうして割れたのかと聞いたが、昔のことだし、事情は分からないという。しかし民明書房は割れた。片や新民明社、もう一方は第二民明書房。二社は互いに後継を名乗り、お互いにその正統性を競った。だが、二社とも長くは続かなかったのだという。何故なのか?


「読者にはどうでもいい事でしょうからね」


 当たり前の事を言うフロイツに、心の中でズッコケた。しかし確かにそうだ。出版社の正統性なんて、本を買う人間にとってはどうでもいいこと。かくして困った二社は再統合を果たし「第三民明社」が設立されて、現在に至ったという。


 おかげで、この世界の謎が一つ解けた。解けたことには違いがないが、相変わらずエレノらしい訳の分からない展開には心底呆れてしまった。やはりこの地を去らなければならない。その思いを強くした。



 ――第三民明社から屯所に戻ると、俺に知らせがあった。宰相府から使いがあり、俺宛の書簡が届けられたという。書簡は宰相府の紋章がエンボスで彫られ、蜜蝋で封をされている。何事かと思い、大仰な書簡を開けて読むと、クリスの次兄で宰相補佐官のアルフォンス卿からのものであった。


(明後日十四時、学園貴賓室ニテ待ツ)


 たった一行。一行の文を伝えるためにこれだけのものを用意したのか! しかしよく考えれば今は冬休み。クリスを介しての連絡が取れなかったのだな。しかし役所というもの、どこも大抑だ。こんな事を伝えるのに、ここまでしなくてもいいのにとは思うが、よく考えたら魔装具もないので、連絡を取りようもなかったのだな。


 俺は第三民明社に同行してくれた事務総長のディーキンと、『小箱の放置ホイポイカプセル』の編集部に入る事になったマッテナーと別れ、馬車溜まりに停まっていた馬車に一人飛び乗った。取引請負ギルドに向かうためである。実は臣従儀礼の際、エッペル親爺に探して欲しいと頼んでおいた書類が見つかったというので、今日はそれを取りに行くのだ。


「遅れてすまなかったな」


 エッペルは俺を応接室に通すと、頼んでおいた書類一式を渡してくれた。見るからに古そうな書類の束。あると確信はしていたが、よくあったよな。


「しかしよくこんなモノがあるって知っていたんだな。探していた連中もビックリだ」


 いや、知ってるよ。ゲームにあったんだから、あるに決まっている。乙女ゲーム『エレノオーレ』に出てくる、取引ギルドの依頼ミッションの一つなんだから、無ければおかしいのだ。


「今から十七年も前の依頼だぞ。グレン、お前も生まれていなかっただろ。どうやって知ったんだ」


「貴族から噂を聞いてな。貴族間の派閥問題でどうしても話がしたいと思ったんだよ」


「依頼主のスチュアート公は・・・・・ 確か王族だったな。グレンも貴族社会に深く手を突っ込んだものだ」


 エッペル親爺はモシャモシャした白髭を撫でながら言う。依頼主の名はローレンス・オーブリー・クリスチャン・スチュアート=アルービオ。唯一の傍系王族からの依頼。しかも十七年前の依頼である。それをわざわざ探してくれという俺の依頼に、エッペル親爺が不信感を持つのも無理はない。


「しかしスチュアート公は長らく公式の場にお見えになっていないと聞くが・・・・・ これと関係があるのか?」


「関係があるのかもなぁ」


 書類を指差すエッペルに、俺はぼかす。まさにその通りなのだが、それを言う訳にはいかない。


「まぁいい。人からの依頼を紹介するのが仕事だからな。ただ、この依頼は十七年前のもの。未決だから契約上は有効だが、依頼主が今も探しているかは分からんぞ」


「分かっているよ」


 俺は書類を『収納』で閉まった。エッペル親爺が言いたいのは依頼そのものが取り下げられてはいない、即ち契約上は残ってはいるが、遠い昔の依頼だから相手が今も依頼を求めているかは不明だぞということだろう。


 まさにその通り。だが相手は探しているからこそ、取り下げてはいないのだ。これはゲームの設定なんだからしょうがない。俺はエッペルに礼を言うと、取引請負ギルドを後にした。


 スチュアート公の依頼とは何か。ズバリ言うと行方知れずとなった娘の捜索である。スチュアート公には二人の子供がいた。一人は亡き嫡嗣パウル、もう一人は令嬢セリア。エッペルから受け取った書類は、このセリアの行方を捜して欲しいという依頼なのだ。そして、この依頼こそ乙女ゲーム『エレノオーレ』の最終ミッションなのである。


(これを片付ければ・・・・・)


 俺は帰ることができるはず。ゲームが終わるはずなのだから。ケルメス宗派の長老ニベルーテル枢機卿は言った。「役割を終えた魂は元の世界に帰っていく」と。「役割」とはゲーム、「終えた」とはゲームエンド。そして魂とは俺の事。あの時直感したのだ。ゲームエンドをすれば俺は現実世界に帰ることができると。


 だだ、すぐにはこの依頼書を探す気にはなれなかった。アイリと・・・・・ クリス。二人のことが頭によぎって踏み出せなかったのである。それにクリスとの約束、ノルト=クラウディス公爵家を守るという約束が果たされていない今、時期尚早だと考えたのである。だが本音を言えば、一度帰ればアイリとクリスに二度と会えなくなる方が怖かった。


 そんな俺を決断させたのは、ダダーン夫妻だった。リッチェル子爵領から任務を終えて帰ってくるダダーンを待つ夫ブランク。ダダーンとの間に出来た子供達を連れて妻であるダダーンを待つ、ブランクのその姿に俺を重ねたからである。ダダーンが佳奈、ブランクが俺。ブランクは待たざる得ない立場だが、俺はこのまま待っていていいのか。


 そんな思いが俺の中で湧き上がってきたのだ。いずれ乗り越えていかなければならないイベント。ならば先手を打ってスチュアート公に俺が知っている事実、ゲームで知った事実を知らせよう。そんな気持ちになったのである。俺は学園の伝信室でセリア令嬢についてお知らせしたい儀があるとしたためて、スチュアート公爵邸に早馬を飛ばした。


 ――クリスの次兄で宰相補佐官であるアルフォンス卿が、従者グレゴール・フィーゼラーを伴い学園の貴賓室に現れたのは、約束の時間より十五分前のこと。俺はそれよりも早く貴賓室前で待っていたので、二人を迎えることができた。挨拶を交わした後、いつものように本室で着座すると、俺は先に伝えなければならない事を話した。


「なに、ディルスデニア王国の首相からの書簡だと!」


 俺の話にアルフォンス卿が驚くのも無理もない。正式な国交のない国の首相からの書簡なのだから。先程、王都に入ったザルツより魔装具で連絡が入り、ディルスデニア王国の首相イッシューサムからの書簡を預かったので、至急宰相府に伺いを立てられるように手配してくれとの連絡が入ったのだ。


 対して俺が間もなく学園の貴賓室でアルフォンス卿との会見があることを伝えると、それは良かったと、予定を変えて学園に来るとザルツが言ったのである。この辺りの臨機はザルツの優れたところである。


「現在、ディルスデニア王国より帰ってきましたザルツがこちらの方に向かっております。暫しお待ち下さい」


「うむ、分かった。だが、どのような書簡なのだろうか・・・・・」


 書簡というのだから、公式のものではない。そもそも国交自体がないのだから、公式もクソもないのだろう。アルフォンス卿からその内容について尋ねられたが、ザルツから聞かされてはいないので答えようがない。


「ならば当主を待つ他はないな」


 アルフォンスはそう言うと、俺に聞いてきた。


「ところで、リサ殿は・・・・・」


「リサは只今、雑誌立ち上げの打ち合わせで外出しております」


 どうしてリサの話を、というのはおくびにも出さずに俺は答えた。


「雑誌とは・・・・・」


「王都にあるお店や、新商品の紹介。街の話題を伝える雑誌です」


「ほぉ。それをなぜ」


「これまで広く情報を知らせたくとも、その手段がございませんでした。そこで雑誌を週一回、無料で配布して知ってもらおうと」


「週一回! 無料とな。それでやっていけるのか?」


 話を聞いてアルフォンス卿はビックリしたようである。アルフォンス卿がどうやって出版を維持するのかと興味を持たれたので、俺は無料で配布するタウン誌の仕組みについて説明を始めた。

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