005 エレクトラの剣
俺の平日の朝は早い。五時前に起きると部屋でゆっくりとストレッチをすることから始まる。こうやって体を起こさないと、後でする剣の鍛錬に支障が出るからだ。人間というもの体が起きるのに一時間以上かかる。起きてすぐに激しい運動は禁物。養生するに越したことはない。
五時四十分くらいになると学食に向かう。学食「ロタスティ」が開くのは六時だが、その十分前ぐらいに開けてくれるからだ。そこで食べて6時半ぐらいまで席につくようにしている。消化が始まっていないと運動するのに支障が出るからで、体を動かすのにも神経を使った方がいいだろう。
学食でゆっくりした後、グラウンドを軽くランニングして、人気がない鍛錬場に裸足で入るのは七時前くらい。後はイスノキという重い木の枝を木刀として、立てたイスノキの左右にひたすら打ち込む。これが「商人秘術大全」に書かれていた商人剣術の鍛錬法だ。
立木より少し距離を置き、肩より上に真っ直ぐに枝を構え、左足を前にして掛け声を上げて立木の左右に振り下ろす。右を打てば左、左を打てば右。掛け声というよりは奇声を発し、全力でひたすら打ち続ける。
打ち込み回数は大体三千回から四千回。同じことをやることが苦でないルーチンワーカーの俺は、学園に通う前には毎日一万二千から一万五千回打ち込んでいたが、今は時間がないのでこの程度の数しか打ち込めていない。
この鍛錬法が書いてあった「商人秘術大全」によると、本来なら一万回程度打ち込みしなければレベルが上がりにくいらしい。が、今の俺は他の方法を用いてレベルを上げる方法を開発したので、今は剣技のレベルを上げるためだけに鍛錬している。またこの鍛錬法、商人属性を持つ人間以外無意味であるらしく、この学園でこの鍛錬法を行っている人間は他にはいない。
そういうこともあって鍛錬場で俺に声をかけて来る者は僅か、というか一人だけという有様。それは当たり前の話で、朝っぱらから大声で甲高い奇声を発しながら狂ったように木の枝を振り回すような奴に関わりたいとは思わないだろう。自分からおかしな奴と絡むヤツはいない。やっている俺でもそう思う。
しかし、ただでさえ人よりレベルが上がらない商人属性の俺にとって、こうしたトレーニング法でなければ剣技が身に付かないのだから割り切らないと仕方がない。他人からの冷ややかな視線ももう慣れた。
九時を過ぎると授業に出るため鍛錬を終わらせ浴場に向かう。この学園の教育方針や授業内容は限りなくクソだが、最高なのは各種の施設で浴場も例外でない。浴槽含めスーパー銭湯並みに広いのはもちろんなのだが、電気風呂やら水風呂、挙げ句サウナまで併設されている。使える時間が六時から二十三時というのも何気にすごい。
また浴場、屋内と屋外の両方から出入りできるように作られており、寮や屋内施設からでもグラウンドや鍛錬場からでもアクセスが良い点も素晴らしい。当たり前だが男女別湯ながら巧みな設計でどちらも不便のない配置がなされているのも高評価だ。
全くもって素晴らしい浴場施設なのだが、ゆっくり入るのは夜。朝はすぐに授業があるのでさっさと洗い浴場から出て、ドライヤールームに入る。この部屋は上下左右から温風が出て、体に残った水気を飛ばしてくれる。おかげで一分程当たれば体が乾く。髪の毛も三分乾きするので俺にはこれで十分だ。後は服を着替えるだけ。
このとき商人特殊技能【装着】を使えば、商人特殊技能【収納】で異空間に閉まってある制服を一瞬で着ることができる。やり方は簡単で収納されている服をアイコンタクトで選んで目線を下に落とす。これでおしまい。
特撮ヒーローが一瞬でボディースーツを装着しているような感覚。俺がこの世界に来て良かったと思う数少ない瞬間だ。浴場に来て服を着て出るまでわずか十分。煩わしさから解放されるこの体験すればもうやめられない。俺はいつものように教室に向かった。
一年
身分制のこの世界。伯爵令息と商人の倅との対決に無関係の人間がどちらの味方をするのか言うまでもない話。貴族の側に決まっている。ここは貴族の学園、幾らアホのドーベルウィンであろうとも貴族の息子である以上、学園世論は無条件にゴールドウィン側に付く。これがエレノ世界の常識だ。
「おいグレン。エライことになったな」
俺が席につくなり、隣席のフレディが真剣な面持ちでこちらを見てきた。
「それで大丈夫なの?」
前の席のリディアも心配そうに振り向いてきた。
「まぁ、どうもしようがないさ」
隠したってしょうがない。俺はフレディとリディアにドーベルウィンとの決闘話に顛末を話した。
「なにそれ! ヒドイ」
「単なる言いがかりじゃないか!」
事の経緯を知った二人は非難の声を上げた。だが言ったところでどうなる訳でもない。共にゲームでは名前も出てこないモブキャラ。この物語への影響力は皆無。というかドーベルウィン自体もモブに過ぎず、モブとモブ以下の俺の決闘など、物語のサイドストーリーにもならない。
「ここは貴族学園。上が黒と言ったら白いものでも黒になる。受けたくないものでも受けさせられる。それがこの世界の『理』だ」
そうなのだ。この教室の席次だって同じこと。前が貴族で後ろが平民。廊下側が上で窓側が下。俺の席は一番後ろの窓側。つまりはこの教室で一番下の身分と言うことだ。
前の席のリディアはショートヘアーの赤毛が印象的な女子生徒で、宮廷に出仕する騎士ガーベル卿の娘。隣に座る細面の顔のフレディは代々の地方司祭・デビッドソン家の息子。どちらの家も地方商人、しかも最近になって力を伸ばしたアルフォード家とは家格が何ランクも上の家である。
そんな彼らがこの席次、末席に近いポジションに座っているのだから、この学園に通う者が王国でいかなる層であるかは自明の如く明らか。王族を頂点とした貴族。そうではない者は所領騎士、官吏、地主、神官、騎士という一般にイメージされる平民とは程遠い身分の人間。そんな彼らが「平民」と扱われる貴族学園。それがサルンアフィア学園。
俺は所詮は他所の世界の人間。このエレノ世界に情もなければ未練もない。そもそも俺が生きていくような場ではないのだから。こんな馬鹿げた世界は早く現実世界のゲートを見つけ、とっととおさらばするに限るというもの。
こうした厳しい身分社会はゲーム『エレノオーレ!』内では全く描かれてはいない。が、たとえ描かれていなかろうとエレノ世界に深く刻まれたこの設定。この不条理な身分社会は、ゲーム世界の物語を構成する要素として製作陣によって最初から定められていたのだろう。そういうアホな事ばかり考えているような連中は、実際に一度こういう社会に住んでみるといい。
今回の件についてリディアとフレディであれこれ喋っていると、俺の右前の席から唐突な呟きが聞こえた。
「『エレクトラの剣』を持っているそうよ」
呟いた女子は正面を向いたまま、こちらを見向きもしない。声の主はシャロン・クローラル。悪役令嬢・ノルト=クラウディス公爵令嬢の側に控える長い黒髪の従者。『エレノオーレ!』をプレイした人間なら必ず見ているキャラクターである。俺はゲームをやっているとき、いつも名前で呼んでいた。
ノルト=クラウディス公爵令嬢の側にはこのシャロンと共にトーマス・フレインという男の従者が控えており、この男従者フレインと女従者クローラルは令嬢登場の際には、必ずその背後にニコイチで付き従って登場する。
しかもこの二人、ノルト=クラウディス公爵令嬢が乙女ゲーお約束の「弾劾イベント」を契機として失脚し、令嬢が落ち延びる際にも行動を共にして、主人が落ち目になろうとも側に仕え続けるほどの忠臣。俺はゲーム終盤のその絵を見るたびにこの二人は必ず夫婦になるべきだと勝手に思っていた。
「魔法剣か・・・・・」
俺は女従者クローラルの呟きにギョっとする二人に目配せしながら呟き返した。クローラルは勝手に独り言を呟いたのではない。間違いなくクローラルの主人の意向を受けて呟いている。
教室の一番前、俺の席より対角線上の席に座る女子生徒、クリスティーナ・セイラ・メルシーヌ・ノルト=クラウディス公爵令嬢がエレクトラの剣をドーベルウィンが所持しているという情報を俺に伝える意図は不明だが、少なくとも悪意あるものではないという事は理解できた。
公爵令嬢の実家であるノルト=クラウディス家はノルデン王国有数の名家であり、王家アルービオ=ノルデン王家の縁戚でもある。令嬢の父で当主のノルト=クラウディス公チャールズはノルデン王国の宰相であり、国の重きを成している。
学園入学以来、俺はノルト=クラウディス公爵令嬢と同じクラスになったこと以外の接点はない。ゲーム上では毎回顔を合わせるおなじみのキャラクターなのだが、この世界に俺が来てから遠巻きに見るだけで言葉を交わすどころか、目を合わせたことすらなかった。
ただ亜麻色のロングヘアーにキリッとした琥珀色の瞳、人形のような端正な顔立ち。ゲームの設定もあってか、遠巻きに見ていても眩しいほどの美人オーラを感じた。可憐なアイリス、快活なレティシア、美人のクリスティーナと言ったところか。
「『エレクトラの剣』は『火剣』。どうやって手に入れたのやら」
「そんなもの持ち出してまで決闘するわけ? 何考えてるのあいつ!」
弱いから持ち出しているのさ、なんて事実はリディアの前ではとても言えることではない。小柄だが活発で思ったことをハッキリ言うリディアに、本当の事を言ったらどんな悪態をつくか想像できる。
「しかし『火剣』なら、一振りしただけでもフレア波が飛んでくる。このフレア波を完全に防ぐ魔法なんてないし・・・・・」
フレディが深刻そうに考え込んでいる。フレア波とは火剣を振るう際に発される火玉のようなもの。フレディは神官属性で、魔法、特に防御魔法には詳しい。その人間が「火玉を完全に防ぐ魔法がない」と言うのだから、それは偽らざる事実。
「フレディ。心配しなくても俺は商人。元々防御魔法は使えないから無問題だ」
「うっ。確かに・・・・・ 商人属性は魔法が無理だったよね」
実は商人が魔法を使えないというのは正しくない。俺が手に入れた「商人秘術大全」には商人魔法についての記述がハッキリある。商人が魔法が使えないのには別の理由があるのだ。
「グレン、嫌味な事を言ってゴメン。力になれなくて済まない」
フレディは申し訳無さそうにうなだれた。いやいや。考えてくれただけでも嬉しいよ、俺は。
「なぁに、ホントのことだ。気にするな、ありがとう」
俺はニコッと笑ってフレディの肩を叩いた。悪気がないのが明らかなのに恐縮されても困るなぁ、と思ったところで教官が教室に入ってくる。そこで俺は右前の女に聞こえるように呟いてやった。
「公爵令嬢に伝えておいてくれ。『グレン・アルフォードは感謝しておりました』とな」
女従者シャロン・クローラルは俺に背を向けたまま、わずかに肩をピクリとさせた。
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