左後ろのなれそめ

 生きてる人間の方がよっぽど怖いだろうが、と思いながら、かっぱらってきた薬品で雑に応急処置をする。幸いそこまで深傷ではなかったが、痛いことに変わりはない。見様見真似で消毒液をぶっかけたガーゼをテープで貼りつけて、包帯を適当に巻く。とはいえ、片腕が使えないんじゃ、ほとんど巻けないのと変わりない。血に塗れて気持ち悪いジャケットを脱ぎ捨てたかったけど、晩秋の空気は寒くて、どうにも手放せそうになかった。仕方なしに、社務所の隅の方に包まって目を閉じる。その瞬間、廊下の方から視線を感じる。

 この寂れた神社に身を隠してから、顔馴染みの闇医者とも連絡が取れないまま、ずっとここで盗人まがいのことをしている。その間、ずっと自分を見ている者がいる。

 明らかに生きている人間ではない、ということはすぐわかった。青白い肌の、如何にも神職が着ていそうな着物を身に纏った男は、じっとこちらを睨みつけている。目に入ったら嫌だなあ、と思うが、それだけだ。やだやだ、と思いながら失敬してきた薬を水で流し込む。

 見ているだけのやつらより、人間の方がよっぽど怖い。それはずっと思っていることだ。たまに何かがあんな風に目に映ることはあっても、やつらは何もできないのだから。寒さとじっとりとしたジャケットの不快感を堪えながら、目を閉じた。何か、舌打ちのような音が聞こえたような気がしたが、隙間風か何かだろうと思って、無理矢理に眠った。


「……ろ。起きろ、クソガキ!」

 蹴飛ばされたような感覚があって、目を覚ました。寂れた神社で寝ていたはずだったのに、そこは壁も床もない真っ白な空間だった。目の前には神職が着ていそうな着物を身に纏った、青白い顔の男が自分を見下ろしている。

「おじさん、誰」

「貴様のような無礼なガキに名乗る名などない」

 男はそう言って、びしりとこちらを指さした。指を差した先が自分ではなく、背後を指差しているのだということはすぐに分かった。

「不浄なものをこれだけ引き連れて、土足で踏み入って……ああ、気持ちが悪い。早く出て行け!」

「……じゃあ、取ってよ」

 怨嗟の声が聞こえている。泣き叫ぶ声も、何かが床を這いずる音も、余計に聞こえる足音も、全部聞こえている。それでも、それだけだ。少し厄介な隣人だと思えば、生きている人間の方が厄介で、汚くて、気持ちが悪い。

「ね、おじさん、神社の人でしょ? 取れないの、これ」

「馬鹿を言うな! 自分がどれだけ引き連れているのかわかっていないのか、このガキ!」

「わかってるよ、そーいう商売してんだからっ!」

 言いながら、ジャケットに仕込んでいたナイフを素早く取り出して、男の首元を掻き切った。人間であれば頸動脈から血を流して即死しているはずの一撃を、男はかわすことすらしなかった。ただ、ナイフが青白い肌の向こうを、通り過ぎていっただけだった。驚いて、思わず眉を八の字にした男をまじまじと見つめる。

「……おじさん、マジで幽霊なんだ。不審者かと思った」

「お前の方がよっぽど不審者だ。人の家に土足で上がり込むわ、盗みは働くわ、おまけに穢れたものを大量に連れてくるときた! という訳でさっさと出て行け!」

「でも寝るとこないんだよ〜。お金もおじさんが思ってるよりないしさあ。おじさん、か弱い女の子をほっぽり出しちゃっていいの?」

「初めましての人間に躊躇なく刃物を振るえるような人間がか弱いわけあるか!」

「あはは、それはごめんね〜。でも、ちゃんとお礼、するからさあ」

 ナイフを放り投げて、想像通りに細い男の腕を掴んで押し倒す。抵抗しようと起き上がってくる男に覆い被さって、細くて青白い手首をがっちりと掴む。

「離せ! このガキ……!」

「……前さあ、ウリやってたことあんだよね。自分で言うのもなんだけど、物覚えいい方だから、結構褒められてたんだよ?」

 距離を縮めると、男がひっ、とか細い声をあげて目をつむる。きっと背中に背負ったものを見てしまったのだろう。可哀想だと思う一方で、その怯えた顔に何となくムラムラしてしまったのも事実だった。

「む……っ、ん、ぅー!?」

 思わず、無防備な唇に口づけしてしまう。そこで今更ながら、幽霊であるはずの男と触れ合えていることに気づく。血が通っていない唇は、柔らかいのにひんやりしていて気持ちがいい。驚いて身動きが取れないのをいい事に、開いた唇から舌を差し込んだ。突然のことに逃げようとする冷えた舌を絡ませようとすると、痛みが走る。それは、久方ぶりの感覚だった。口内に染みる血の味を確かめたくて、舌なめずりをする。

「……生意気」

「は、はあー!? 貴様が悪いんだろう! じゅ、純潔まで穢そうとするなど……!」

「へえ……おじさん、こういうことするの初めてなんだ?」

「うるさい! いいから早く出て行け、……ッ!?」

 男は怯えたように目を見開いて、先程までの威勢は何処へやら、小さく首を振るばかりだ。馬乗りになって頬に口づけして、それから頭を撫でて、優しく囁いてやる。

「優しくしてあげるからさ、おじさんは寝てるだけでいいからさ。だから、おじさんのはじめて、ちょうだいね?」


 ずっと嫌な夢しか見ていなかった。それなのに今日は、ばかにいい夢を見た気がしてすっきりと目が覚めた。人差し指で中指を撫でる。何だか、とてつもなく淫靡な夢だった気が——

「あいたっ」

 何かが飛んできた。それはお札をくしゃくしゃに丸めたものだった。それと同時に、今まで聞こえていた騒音の全てが——泣き声も、怨嗟も、這いずる音も、足音も——聞こえなくなった。達筆な字で書かれたお札を思わず広げると、こう書いてあった。

「これから一生をかけて、お前を怖がらせてやる」

 随分静かになった背後から聞こえた、お札の裏面の字と同じ文面を読み上げた声は、夢で聞いたことがある気がした。

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