狐ヶ咲大佐の長い長い悪夢

 しくじった。しくじった。

 後ろ手に拘束され、屈強な兵士に連れられて地下牢を歩く男はそればかりを考えていた。マフィアから手に入れた財と、薬物の流通ルートを支配できる情報をもとにすれば、各国の武装組織を傀儡にできた。自分の計画は正しかったはず、それなのにあと一歩のところで何もかもふいにされてしまった。

「入れ」

 兵士が一つの牢を開け、突き飛ばすようにして中に通される。床に転がった拘束された男を、くすくすと愉快げな笑い声と共に見ている者がいる。そいつは——その少女は、パイプ椅子の背もたれに肘をつき、蕩けたような目で男を見つめ、溜息を吐いた。

「ああ……ようやく会えましたね、大佐……」


 もう行っていいよ、と少女に言われた兵士が、固く重い牢の扉を再び閉める。床に転がされたまま、男は椅子に座った少女を睨みつけた。

「拷問官、テッド・ピンキーベア……本当に存在していたとはな」

「あたしのこと知ってるんですか? わあ、嬉しいっ」

「貴様の名を知らぬ軍人などいないだろうよ」

 『飴色の悪夢』、『ファンシーバイト』。男が知る限り、テッド・ピンキーベアはメルヘンと物騒が一緒くたになったような通り名で呼ばれていた。絵本から出て来たような恰好で、虫も殺せぬような細腕で、爪を剥ぎ耳を削ぎ様々な器具を用いて、相手が何もかも打ち明けてしまうまでその責め苦を終えない——そんな惨い逸話を、少女はロリータ風のジャンパースカートと共に纏って存在している。無垢な少女がころころと笑いながら、爪を割り、骨を砕く様を信じられず、廃人になった者もいるらしい——という話を、男は冷静に思い出していた。話していたのは、男が率いていた部隊の兵士で、自分は戦場で死ぬのだ、とよく煙草をふかしながら笑っていた男だった。そんなベテランの男が、青い顔をして、まるで怪物を恐れるように、あの少女の話をしていた。あの男は、少女をなんと呼んでいたか。そう、

「……『ピンク色の病熱』」

「やだ、大佐物知り〜。そんな前に流行ったあだ名まで覚えてくれてるんですね。テッド、嬉しいっ」

「……道化で隙を作ろうとしても無駄だ。お前に話すことなど、これっぽっちもないのだからな」

「えー、あたしはいっぱいお話したいですよ」

 大佐のいけずー、と言いながら、少女は兵士から手渡された書類をめくっていく。

狐ヶ咲こがざき大佐。かつて我が国にあった傭兵部隊『マシンガン・ドール』の隊長。何年か前に事故かなんかで全員死亡したってニュースでやってましたね。でもあなたは生きていた。あたしが祈っていたから?」

「くだらん」

「あはは、ジョークなのに! ちゃんと知ってますよ、そういう作戦だったんでしょう?」

 当時、『マシンガン・ドール』はあるマフィアと契約を結んでいた。だが、ある日突然そのマフィアの本拠地に火災が発生した。その際に『マシンガン・ドール』の隊員も死亡した。周囲に多量の弾痕があったことから、何らかの襲撃を受けたと見做されていた——そう、この男が現れる前までは。

「なんで『マシンガン・ドール』がいきなりマフィアを襲撃したかはちょっとわかんないですけど……どうせ良さげな薬物とか見つけちゃったから、それをバラ撒いて財を蓄えようって魂胆だったとか?」

 ビビッドなピンク色で染められたツインテールを振って、少女はうーん、と考える素振りを見せる。そうして、急にぱちりと指を鳴らした。

「あ、違う! んーん、大佐はそんなことしない。そんなことのために生まれ故郷に押しかけてきて戦争なんかしない。だから、それ自体が目的。そうでしょう?」

「…………」

「あ、黙っちゃった。ねえ、お話しましょうよー」

 ぎしりと椅子から立ち上がる音がしたと思うと、こつこつと音がして、少女が近づいてくるのがわかった。フリルが目先に映って、星柄が浮いた目がじっとこちらを見ている。本当に拷問官なのかと疑ってしまうほど白い手に、優しく髪を撫でられる。

「大佐の考えてること当ててあげますよ」

「…………」

「“お前は何だ”、“こんな女は知らない“……こんなところですよねえ? あはは、あははははは! ですよねえ、大佐があたしのことなんか知ってる訳ないですもんねえ! でも」

 その瞬間、少女の顔から朗らかな笑みが剥がれ落ちたように消えて、真顔になる。髪を撫でていた手にぐしゃりと髪を掴まれて、無理矢理視線を合わされる。夜空のような瞳に、眉を顰めた自分の顔が映っている。

「あたしは大佐のことなんでも知ってるんです。大佐が元々我が国の兵士だったことも、その頬の傷がついた戦争こぜりあいがいつ起こったかも、傭兵部隊に引き入れた兵士の人数も、あなたが産まれた病院の名前も、あなたが気まぐれに抱いた男や女の人数も、我が国で戦争ドンパチしようとした日がいつだったのかも、全部、ぜーーーーんぶ、知ってます」

「……それで、どうする気だ……」

「どうするも何も、一つしかないじゃないですか」

 硬い床にうつ伏せに叩きつけられて、一瞬だけ息が止まる。暴れる脚を慣れた様子で抑えつけられ、手を握られる。

「あは……っ、本物の大佐の手だぁ……」

 左手を撫でられ、薬指を柔らかく湿ったものに包まれる。それがあの少女の口の中だということは、すぐにわかった。思わず爪を立てようとした時には、少女の口はすぐ離れていく。

「……怖いですよ。女の子の顔に傷つけようとするなんて」

「どの口が……」

「ちょっと興奮しちゃっただけで、指を千切ろうとした訳じゃないです、安心してください」

 手を弄びながら、少女が唇を耳元に寄せる。ちろりと耳を舐められて、囁かれる。愛と言うにはあまりにも歪んだ感情を、耳から流し込まれる。

「あなたが地獄へいっても、ずっと離しませんからね、大佐……」

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