うみなおし
スルメの臭いが鼻をつく。旨みがあるのだ、と先生は言うけれどいまいち納得がいかない。だって固くて臭いものなんて絶対に不味いに決まっているからだ。
「小暮く〜〜〜〜ん」
その独特の臭いは、先生が咥えたスルメから発せられている。思わず顔を逸らすと、先生はますます顔を近づけてくる。
「近いですよ……」
「どうせ暇なんだろぉ〜〜、明日、付き合ってくれよ〜〜」
「分かりましたから食べるか喋るかどっちかにしてください」
「む……そうか、失敬失敬」
もがもが、と先生は咥えたアオリイカのスルメを一気に噛み砕く。先生は変わりものだ。本来なら同種しか食べないというただでさえ変わった鬼なのに、屍肉は屍肉でも乾物ばかりを好んで食べているのだから。
「で、なんなんですか」
「うん、まあ、君も知っているだろうけどね」
そう言いながら先生は、端末画面をタップしてニュース記事を開く。それは今、世間を騒がせているある凶悪事件について書かれた記事だった。
はじまりは、確か山際にあった大学だった。被害者は、駐車場の真ん中で、まるで地面に叩きつけられたかのような殺され方をされていた。その後も周辺で次々と似たような形跡の遺体が発見され、現場には赤みがかった獣の毛が残されていたことから、誰かがこう呼び始めた。そう、『殺戮オランウータン事件』と。しかし、それはあまりにおかしな話だ。
「……たしかに、先生が興味持ちそうだなあとは思ってましたけど、絶対ありえないんですよ。まだ犬どもの仕業だって言われた方が理解できます」
「何故?」
「何故も何も……オランウータンなんて動物、とっくに絶滅したじゃないですか」
そう、オランウータンはもう五百年以上前に絶滅してしまったのだ。それよりも昔、千年以上前に人間が突然滅びてしまった時に、まだその時は『食人鬼』と呼ばれていた鬼が、人間の代わりを探して、霊長目に目をつけたのだ。人に近いオランウータンやチンパンジーは『食人鬼』の間で特に好まれたため、あっという間に滅んでしまったという。小学生の歴史の教科書にも載っているくらいには、当たり前の知識。そんなことくらい、先生だって知っているはずだ。それなのに。
「……るもん」
「え?」
「いるもん! オランウータンいるもん!!」
駄々を捏ねる子どものように、バタバタと先生は手足を動かして暴れる。そうして椅子から立ち上がると、机の上に置いてあった物々しいケースを持ってくる。
「はあ……はあっ、これを、これを見たまえ小暮くん」
「年なんだから変に暴れた後に機敏な動きしない方がいいですよ」
「やかましい! とにかく見たまえ!」
ぱちん、とケースのロックが外れた音がする。その中には、赤みがかった獣の毛が、ジップ付きの袋の中に入っていた。
「これ……本物ですか?」
「そうだとも。本来は機密事項なんだがね、小暮くんは大事な協力者だから教えてあげよう。解析したが、これは
「…………」
ああ、と心の中で溜息を吐く。これはこの人の悪癖だ。知的好奇心という、絶対に治ることのない、どうしようも無い病気だ。
「つまり、つまりだよ小暮くん」
興奮を隠しきれない声と共に、先生ががっしりと腕を掴んできた。もう逃げられないことを悟って、再度溜息を吐く。今度は、はっきりと口から、重苦しい溜息を。
「いざ、オランウータン探し! 明日の朝六時! ここに集合だ!」
「……いいですけどぉ」
朝六時に起きること。それは苦行にも等しい。アラームをいくつセットしておくか、と頭を悩ませながら、先生が嬉しそうに持ってきたケースの中の毛に触れる。
「……これは」
この世界から人間が消えてからは、鬼がその座をそっくりいただいている。人間を疎ましく思っていた鬼が殆どだったが、彼らが築き上げた文化に心惹かれる鬼も現れるようになった。
先生もその一人だ。詳しいことはよく知らないけれど、先生は人間やら絶滅した生き物のことを調べているらしい。そうして、今鬼たちが欲望のままに生きることなく、文化的に過ごせているのは人間たちが文明を切り開いてくれたおかげなのだと、嬉しそうに語る。ヒトがいなかったら我々は屍肉だけを求めて彷徨う存在になっていたのかもしれない、と言って笑う。その様が、とても愛らしい、と思う。
けれど、これは流石に愛想を尽かしたって仕方がないと思う。
「……まだ、ブッ飛ばせばいいですか?」
尋ねれば、背中にリュックサックのように背負った椅子に座った先生が、青褪めた顔で頷いた。
「ゲロかけないでくださいよ」
「わかってる、わかってるけど、……ぉうっ、ぇ」
「吐くんなら袋に吐いてください!」
走りながら、背負い紐を担ぎ直す。大きく一歩を踏み出し、木の上に飛び乗って移動する。その間にも、先生が袋の中にげえげえ吐いている声がする。
「こ、っぐ、れくん、君、君ねえ、いくら、なんでもねえ」
「ショートカットできたんだからいいでしょう。それより、一旦止まりますよ。この辺でいいですか?」
「そ、そだね、とまっ、」
て、と先生は言いたかったのかもしれない。だがその時には、もう体は中空へと飛び上がっていた。地面に着地する前に、先生の手から袋が離れたのか、べちゃりと不快な音がした。
「水、小暮くん水っ」
「はいはい……」
先生を背負っていた椅子を地面に放り投げて、地面に這いつくばる先生に水筒を投げてやる。水を飲みたいのはこっちも一緒なんだけどなあ、と思いながら、先生がしっかと持ったリュックサックを眺める。動きが鈍くなるからって楽をするんじゃなかった、と少しだけ後悔。
「ふう……早いうちに、禁足地に入れたね……」
ようやく水筒から口を離して、先生が山の向こうを仰ぎ見る。差し込む陽射しすらも、どこかじっとりとしている気がする深い山の中は、朝だというのにどこか薄暗かった。そんな不思議な光景が広がっているのに、どうしてか心地良さを感じる自分がいる。
「……ところで先生、『きんそくち』って何ですか?」
「……ああ〜〜、そっか、そこからかぁ……そうだよね、最近の若い子は……」
「年だとか言われたくなかったら、その年寄りムーブやめた方がいいですよ」
「うるさいな。……禁足地ってのは、人間が『踏み入ってはいけない』と決めた場所なんだ。神聖な地だったり、入ったらよくないことが起きたりと、理由はさまざまあるけど……まあ、古代信仰が残っていたところが多いと思う。ここも、そういう類のところみたいだよ」
「へー」
「聞いてないでしょ!」
ビーフジャーキーを食べ終わった先生は、すっくと立ち上がる。いつもの不健康そうな動きとは違う、健康そのものの動きだった。いつもやれやれと言いながらよいしょと気合を入れて背負うリュックサックも、軽々と背負っている。
「あれ、元気ですね先生。普段ならもっとぜえはあいってるのに」
「そう、そうなんだよ。古代信仰が根付く禁足地は、人間にとっては良くないところらしいのだけど、鬼にとっては良いところなんだ」
「……そうですかねえ?」
「人間も、鬼の存在を感じることができた者と、できなかった者がいるそうだから、鬼にも個人差があるんじゃないかい?」
そうなんですかあ、と生返事。
先生はどこか浮き足だった調子で、鼻歌まで歌いながら、山の奥へと進んでいく。この奥には大きな城があるらしいよお、もっといいカメラ買っておけばよかったかなあ、なんてことを話している。とても楽しそうだ。
「それもいいけど、人間のことも忘れないでくださいよ?」
「忘れてないよ! でも、禁足地のフィールドワークなんて、なかなかできないんだよ? それに、体調もこんなに良い! こんなこと、なかなかないよ! 幸せだ!」
そうですねえ、と生返事。
先生は汚れた様子のないトレッキングブーツを履いて、山道を歩いている。いつもならば数メートル歩いたところで力尽きて、——場所によっては、ずっと地に足をつけないまま——背負われているから、万全に準備したはずのブーツは汚れないし、先生は弱々しく端末に搭載されたカメラで、写真を撮るしかない。
覚えているから大丈夫、と言って先生は端末のメモと向かい合って、記録する。書き記す。そうして、いつもの不遜な調子とは打って変わった様子で、謝るのだ。
ごめんね。重たくて、付き合わせて、ゲロ臭くて、走らせて、ごめんね。
全然謝らなくたっていいのに、と思う。
先生は鬼のくせに乾物しか食べないし、人間なんかに興味を持つし、シデムシのような存在だけど、それでも、先生が先生だから、それで良いのに。
「あ、やばい」
先生は浮かれている。だから、気づかない。浮かれているその肩を掴んで引っ張った。その瞬間、赤茶けた色の怪物が通り過ぎる。
「わっ、え、何……!?」
起き上がって写真を撮ろうとする先生を押さえつける。地の底から響くような呻き声をあげた怪物は、確かに教科書で見たオランウータンにそっくりだった。けれど、裂けた口に並んだ鋭い牙と、鬼のように赤く光った目が、確実に目の前にいるそれを怪物だと証明している。怪物は吠え声をあげて、こちらに向かってくる。咄嗟に先生の手を取って、逃げた。
「小暮くんっ……!?」
「奥に城があるんでしょう、先生はとりあえずそこに隠れててください!」
怪物の臭いがすぐ背後に迫っているのを感じる。太腿に装備していたサバイバルナイフを、全部思い切り投げつけた。いくつか命中したのか、苦しむような叫び声と、地団駄を踏むような音がする。先生を抱え込んで、思い切り城の方へと駆け抜けた。
城壁を飛び越えて、城の中に入る。先生は息を切らしながらぺたんと座り込んだ。
「小暮くん、あれは……」
「ええ、十中八九使い魔ですね」
使い魔。
とある種族の鬼が、自分の血を分け与えることで誕生した、人間でも動物でもない、正真正銘の怪物。並大抵の鬼には倒すことはできない。
けれど。
「……ちょっと行ってきます」
「はっ!? 小暮くん、そんな無茶な」
「まあ、先生より強いんでね」
大丈夫でしょ、と後ろを向いた。先生に、こんな無様な顔を見られたくなかったからだ。先生に向き合っている時は、いつでも、何事にも無関心で、少し辛辣な少女でいなければいけないから。
「……じゃあ、ちょっと行ってくるんで。気にせずに禁足地探索続けてくださいよ、先生」
鬼が跋扈するこの世界で、一番強い鬼は吸血鬼だ。弱点を伝承という形で付与していた人間が消えたためである。吸血鬼は唯一、鬼の血肉を必要とする鬼である。そうでなければ、強さを失ってしまうから——そう、囁かれている。
「……あ、来た」
城壁が崩れ落ちた。先生はもう城の中に入っただろうか、と少し心配になる。あの人は、いくらか元気になったのだとしても、鈍臭いことに変わりはないのだから。
赤茶けた体毛の、毛むくじゃらの怪物が声を上げる。確かに、そのルーツを辿ればオランウータンだっただろうと予測できる。力も強いし、侵入者を必ず排除するだろう。そんな理由で使い魔にした吸血鬼も、少なくないだろう。
「クソッ……!」
膝蹴りを使い魔の頭部に炸裂させる。けれど、まだよろけただけだ。徹底的にこいつを叩かなければいけない。よろけたところに蹴りを入れて、数発顔面にお見舞いしてやる。目眩を起こしたのか、使い魔の足がふらついて、まともに立っていられなくなる。その無防備な瞬間を狙って、心臓を抉り取った。おぞましい叫び声が聞こえる。持っているのも嫌になって、心臓を握りつぶした。
「…………おい」
かつては人の血を吸って生きていた
せっかく強い者が強いと認められる世界にしたのに。
せっかく出まかせの弱さから解き放たれたというのに。
これでいいと、わたしは思っているのに。
「……おいおい。せっかく用意した人形が台無しじゃねえか」
城壁の影から男が滲み出るように現れた。今では古風だと馬鹿にされる、黒いマントを身に纏った男は、そう言って、牙を見せつけるように笑った。
「使い魔を殺せるのは、心臓を砕いた時だけ。それを知っている奴も随分と少なくなったというのに……お前は迷わずそうした。なあ、お前も長く生きてるんだろ?」
「……そういう年寄りムーブ、大っ嫌いなんですよね」
「あぁッ……!?」
「大体、あの使い魔も
「テメェ!!!!」
男が右腕を大仰に振るう。その腕は猿の手に取り込まれたのか、猿の前足へと変貌している。次々と先程殺した使い魔がこちらに牙を剥いて襲いかかってくる。けれど。
「——人間の創ったもの利用して、これだけのことしかできないんですかぁ?」
先程の使い魔を殺した時に回収したサバイバルナイフを、使い魔に向かって投げつける。心臓を目掛けたナイフは肉を抉り、心臓を壊す。壊したら方向転換して、また襲ってくる使い魔の心臓目掛けて飛んでいく。飛翔する獰猛な鳥のように、ナイフは使い魔たちの心臓を砕く。男は信じられないという風に死んでいく使い魔を見て、そうしてこちらを睨みつけた。
「そうか、お前が……」
「は? あなたみたいな三流雑魚に知り合いはいませんけど」
「とぼけるなッ!! お前こそが吸血鬼の真祖にして仇敵『彷徨える
「……へえ」
無理もないか、と思う。
「そうだ、お前のせいで俺たちは地に落ちたんだ! 両親の親は、食べるものが無くなって獣のように死んだ、両親は鬼の血が得られずに死んだ、俺もこんな無様を晒して生きていくことしかできない! お前は吸血鬼を貶めた罪人だ! 何が辺獄だ、テメエこそが——」
「うるさいですねえ」
男の怨嗟に呼応するように現れる使い魔を壊す。文字通り壊して、バラバラにする。一歩踏み込んで、目の前に立つ。右腕どころか、顔の半分まで猿に変わりつつある男が、目を見開いて驚く。先程まで離れていたところにいたのに、とでも言いたげな表情だった。
「何を驚いているんですか。
ああでも、その必要はないですね。と笑ってやる。心臓を抉り出したせいで血塗れの右腕が気持ち悪いけれど、それでも嘲笑ってやる。
「……汚ったな」
先生と一緒だから、シャツも新調してきたのに。こんな雑魚の血で汚れてしまった。無意識に舌打ちが出る。先生と二人きりの時間を割かれて、嫌な記憶まで蘇らされて、
「……あ」
その時、あいつがやけに色々と知っていたことを思い出した。あいつはどうして『彷徨える辺獄』が真祖であることを、世間的には『突然死んだ』ということになっている人間たちをわたしが殺したのだと、何故知っていたのだろうか。
冷や汗が背中を伝う。先生は人一倍探究心が旺盛だから、きっと見つけてしまっている。あの男が聞かされた情報を、読んでしまっている。見てしまっている。堪らなくなって城の中に入った。階段を上がろうとして、脚がもつれてよろける。わたしらしくない、なんて無様な姿。それでも、あれがあるのだとしたら、あの人にだけは見られてはいけない。
「先生!」
ブーツの足跡を辿って行った先、奥まった書斎に、先生はいた。振り返った先生は荒い画質の映像と、わたしの顔をゆっくりと見比べた。
「小暮くん、……なんで、」
「先生、
愛してますよ」
先生を殺した。
誰しも見られたくない秘密とか、知られたくない黒歴史とか、ツッパっていた頃を隠したいとか、そういうものがあるだろう。
先生は、わたしの一番恥ずかしい時期を見た。およそ千年と三百年ほど前、人間の血を浴びて、月夜に突っ立っているわたしを、見てしまったのだ。頭がいい人だったから、あの荒い映像に映っていた少女がわたしだということに気づいたはずだ。
いや、いつだって気づいているのだ。
先生は人一倍探究心が旺盛で、鬼の中で一番人間を敬愛していると言っても過言ではない。そんな先生だから、自分の強さだけを求めて、人間を殺した鬼が近くにいたという事実に耐え切れないのだ。
一回目は次の日に死んでいた。二回目は事実を受け入れられずに死んでしまった。三回目で、これが先生のためになることなのだと言ってあげたら、また、死んでしまった。そうやって自殺した後、わたしがどんな気持ちで先生の死体を見ているのかなんて知らないくせに。
わたしは鬼が強い世界にしたはずなのに。人間たちが勝手に付け足した
だから殺した。殺さざるを得なかった。はじめからやり直すにはこうするしかないから。
「はぁー……あ。これやると、すごい疲れるのになあ」
先生の顔を見る。恐怖に青褪めた顔。見ていられなくて、目を閉ざして口づけをした。触れ合えるのは、今だけだから。
「じゃあ、先生。次も元気にいきましょうね」
先生が目を開ける。そこはいつもの書斎のソファの上だ。先生は首を傾げて、やけにリアルな夢を見ていたことを報告しに来るだろう。
速報が流れる。殺戮オランウータンの正体は、
小暮くん、と寝起きの先生の声がする。少し嬉しそうな、けれどとても残念そうな声。
「あのね、妙な夢を見たんだよ。君とオランウータンを探しにいく夢を——」
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