びょう

 犬の吠え声でいつも目を覚ます。隣人の飼っている白い犬が今日も餌か散歩を強請っては飼い主にどやされている。けれど、飼い主に「馬鹿な犬」と称されているその犬は、数秒経ってはまた飼い主に向かって吠えている。

 彼女の足の甲に爪先が触れた。とてもいけないことをしてしまったようで、慌てて離れる。布団の中で取れる距離など高が知れているけれど、自分は悪くないのだ、ということを証明するように、なるべく窓の方に足を近づける。

 カーテンの向こうから犬の鳴き声と足音が聞こえる。飼い主は散歩に行くことにしたらしい。ぼんやりと、あの白い犬は幸福だと思う。何だかんだ言われても大切にされている。馬鹿な犬だと言われても、罵声を飛ばされていても、愛されている。幸せだ。その行為があることで、義務だと思うことはなくなるから。

 眠っている彼女の睫毛を見ている。彼女は好きだと言ってくれるし、頭を撫でてくれるし、ひどいことは絶対にしない。けれど、その華奢な掌に本当に気持ちがこもっているのか疑ってしまう。本当は彼女は私のことなんかどうでもよくて、私が彼女を求めるから義務でそうしているだけなのかもしれない。そう思ってしまう自分が嫌で嫌で仕方がない。

 死んだら彼女は私を罵るだろうかと思って買った、知らない国の言葉が書いてある薬が家の何処かにある。毎朝、こうして犬の吠え声で目を覚まして、彼女の寝顔を見る度に、それを飲んでしまおうか考える。私より遅れて目を覚ました彼女は、冷たくなった私を見て泣くだろうか。黙って死んだことを罵るだろうか。それとも何も言わないで服を着て、いつもと同じように家を出るのだろうか。なんでもいいけれども、どうにかして彼女の心に傷をつけたいと、そう思うのだ。そうでなくては。

 そうでなくては、私が彼女に愛されていたという証明を残すことができない。


 七時のアラームが鳴っている。彼女の華奢な手が動いて、スマートフォンを手に取った。ん、と寝起きの低い声が聞こえて、スマートフォンはスヌーズをオフにして放られてしまった。おはよう、と言われて頭を撫でられる。愛されているのだと錯覚することができる時間。この時間だけが続けばいいのにと思っている。

 犬の吠え声と、飼い主の怒鳴り声がまた聞こえた。犬の鳴き声は、少し怯えたように聞こえた。犬は何に怯えているのだろう。私は、彼女の優しい手が怖かった。いつかその手が私ではない誰かに触れた日のことを怖がって、今日も黄色い錠剤の行方のことを頭の隅で考えている。

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