極妻入門
蕎麦の味もわからないような状況下の中、横にいる少女が不意に私に声をかけてきた。
「お兄ちゃん、こしょう取って」
「……」
蕎麦屋に胡椒なんておいてないのに妙な子だ、と思ったが言えるような雰囲気ではない。恐る恐る柚子胡椒を渡すと、少女は顰め面をして瓶を床に叩きつけた。胸倉を掴まれる。
「お兄ちゃん、これは柚子胡椒やろ。こしょうはこっちちゃ!」
身を乗り出して、私の丼の前に置かれていた一味唐辛子を、黒い指抜きグローブをした手が乱暴に奪い取った。
「わ、わからないよ……」
思わずそう言うと、少女は目を瞬かせてゲラゲラと笑った。
「そしたら、ちゃんと覚えてもらわないけんね」
一味を振りかけて、真っ赤になった蕎麦を少女は美味そうにすすっている。
「ほら、早く食べんね?置いてくよ」
「……置いていってくれよ……」
割れた窓から冷たい風が入り込んでくる。落ちていた薬莢が転がって壁に当たり、乾いた音を立てる。少女は蕎麦をすすりながら、私の方を見た。
「置いていくわけないやろ。あんたはウチがもらうって言いよろうが」
出汁まで綺麗に飲み干して、丼を持っていた温かい手が私の手を握った。グローブをした手は、その筋の人間であることを疑ってしまうほどには華奢だ。
「……それとも、持ち運べる大きさにした方がいいけえ?」
彼女の足元に無造作に転がしてあるマシンガンをチラリと見る。こんなものに撃たれたら、『持ち運べる大きさ』になる頃には死んでいるに違いない。周りで死んでいる人々のように。
「いっ、嫌だ」
「それなら、何ちかんち言わんと、ウチの言うこと聞いた方が賢明やろ」
「はい……」
私は力無く頷いた。もうそうするしかないと悟ったのだ。少女は私の背中を叩きながら、またゲラゲラと笑った。
「いやあ、あんたみたいなお嫁さんがいてくれたけ、今年最後の日、ええ一日になったぞ」
もう何も言葉を返す気力がなかった。弾丸の被害を免れたテレビが、日付が変わったことを知らせた。
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