第45話 イカロスの翼。

 佐倉要は有馬真一の家を出た。

 時刻はもう間もなく正午になる。真一の母親から昼食を勧められたが、丁重に辞退してきた。

 

「あっ」


 要は思わず声をあげる。

 驚きながら指先を向ければ、相手も同じく驚いた表情を浮かべて同じように指先を要に向けている。

 真一の家の隣、音無千鶴の家から出て来たのは、千鶴の友達だという三嶋舞だった。


「千鶴ちゃんの具合はどう?」


 すぐに駈け寄り、要は舞と向かい合うように立つ。


「今は、落ち着いてるみたい。えっと、佐倉君だったよね?」

「嬉しいな。俺の名前を覚えてくれてたんだ。三嶋さん」

「あなたもね」


 どちらともなく微笑み合い、二人は並んで歩き出した。要は隣を歩く三嶋舞を横目でちらりと見る。

 勝気そうな目の綺麗な子だった。気は強めだが、かなり友達思いの優しい子だと感じている。

 それに、彼女はスタイルもいい。女子にしては背も高く、おそらく170㎝近くはあると思われた。部活中は後ろで一つに束ねていた髪は、今はほどかれ、肩まであるストレートの髪が、歩くたびにさらさらと揺れている。

 

「有馬君って、本当にちづの事が大切なんだって、実感したわ」


 しみじみとした口調で舞が呟いた。


「俺も。……でも、有馬の奴、家に戻った途端、倒れたんだ」

「え⁈」


 要のもたらした情報は、思った以上に舞を驚かせたようだった。彼女の口から飛び出した声に、近くを歩いていた人が振り返ったほどだ。

 だが、要は舞の驚きが理解できるので、「うん。うん」と素直に頷く。


「びっくりするよね。俺もチョー驚いた」

「ねえ、有馬君はどうして倒れたの? 具合が悪そうには見えなかったけど?」


 心配そうな表情を浮かべ、舞は要に尋ねる。


「トラウマかな」

「トラウマ?」


 要領がえない要の言葉に、舞は綺麗な額に皺を寄せた。

 

「そうだよ。………子供の頃に、有馬の目の前で千鶴ちゃんが三日間も意識が戻らない重傷を負ったんだって。きっと、その時の事を思い出したんだと思う」

「ちづが大怪我をしたのは知ってはいたけど、………意識が三日間も戻らなかったの?」

「そうらしいよ。その間、有馬はずっと千鶴ちゃんが眠るベッドの側に座って、食事もろくにしなかったって、さっき有馬のお母さんが教えてくれた」

「だから、トラウマ……」


 形の良い顎に手を当てて舞が考え込んでいる。その姿を、要はじっと見つめる。


「……俺、有馬と千鶴ちゃんがくっつけばいいなって、ずっと思っていたんだ」

「うん」

「でも、今は逆」

「逆? 何が? どういう意味?」


 つと顔を上げた舞は、立て続けに質問を要に投げかけてきた。


「千鶴ちゃんの存在は有馬を苦しめる。有馬は千鶴ちゃんから離れた方がいいと思うんだ」

「ちょっと、待って!」


 舞が要の前に回り込んできた。要は足を止めて舞を見下ろす。


「あの二人はすでに相思相愛よ。今はまだ、ちづが自分の気持ちに気付いていないだけで……」

「そう。だから今ならまだ間に合うんだ」

「ちょっと、まさか二人の仲を邪魔するつもり?」

「……俺は、有馬には幸せになってほしいんだ。でも、千鶴ちゃんが有馬のそばにいれば、有馬は絶対に幸せにはなれない」

「絶対なんて言いきれないし、それはあなたが決めることではないでしょ?」


 強い光を帯びた目で、舞は要に言う。要は笑みを消して舞を見た。


「あのさ、『イカロスの翼』って知ってる?」

「ええ。もちろん知っているけど……?」


 突然話が変わったからか、舞が怪訝そうに眉を潜めた。


「俺にはイカロスが有馬で、太陽が千鶴ちゃんに思えるんだ」

「……」


 舞は何も言わない。要は言葉を続ける。


「千鶴ちゃんに近づけば近づくほど、有馬は駄目になる」

「有馬君はイカロスではないわ」

「……もちろん、決めるのは、有馬だよ。でも、俺はもう有馬の恋には協力したりしない。だから、三嶋さんも傍観していてよ」

「もう遅いんじゃないかしら? 有馬君は動き出しているもの」


 向き合う二人の間を風が吹き抜けていった。

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