第41話 倒れた千鶴。
音無千鶴は苦しそうに顔を歪め、胸元を握りしめた。
(どうしたんだろう……? 外周走ってる時からずっと胸が苦しい……)
「来るよっ!」
「!」
(! ぼんやりしている場合じゃなかった。 試合中だった!)
先輩相手に、千鶴達1,2年の後輩組はしっかりと食らいついていた。相手コートから撃ち込まれた白球を斜め前にいた舞が弾く。球は前に飛ばず、千鶴の頭上を越えていった。
「あっ!」
キュッと床を鳴らし、反射的に千鶴は駆け出していた。この球を取らなければ負けてしまう! ただ絶対に取らなければ、という思いだけで体育館の壁際まで球を追いかた。伸ばした右手に球が触れる。千鶴は思いっきり後ろへ打ち戻す。
「取った!」
体育館の中を期待に満ちた声が響いた。千鶴が間一髪でつないだ球を2年の先輩が相手コートへ丁寧に返す。
「音無! 早く戻って!」
「はいっ!」
コートへ戻る間もなく、球は再び撃ち込まれてくる。千鶴は床へ飛び込むように滑り込み、球の下へ手を差し込む。球は床に接することなく天井へ向かって跳ね上がった。
「よし! まだ繋がってるよっ!」
続くラリーに喜ぶ2年の先輩の声を聞きながら千鶴は重く感じる体で必死に立ち上がり、すぐに構えた。
ハアハアハアハアハア
すでに千鶴の呼吸は上がっていた。いつもより荒く短い呼吸を繰り返す。
(く、苦しい………、それに、体がひどく重い。どうして?)
立っているのも辛いのに、球は容赦なく千鶴に向かってくる。千鶴は反射的に球の軌道へ体を滑り込ませた。球はセッターの元へ飛ぶ。
「オープン!」
舞の声が響き、セッターが上げた球がネット際で大きな弧を描く。舞は高く上がった球に向かって跳んだ。
バシッ
3年のコートの床で音をたてて跳ねた球がその勢いで体育館の中央を隔てているネットに当たって落ちた。笛の音が響き、1,2年合同チームに点が入る。
ワーッ
何とか立ち上がることができた千鶴だったが、どんなに息を吸っても呼吸が楽にならない。喜ぶ仲間達の声がだんだん遠のいていく。さらに、手足まで震えはじめた。
(苦しい、苦しい……)
千鶴は短い呼吸を繰り返す。
(怖い!)
呼吸がうまくできず、恐怖心が千鶴を支配する。あまりの苦しさに背を丸め、掻きむしるように胸元を掴んだ。
さらに、追い打ちをかけるようにめまいが千鶴を襲う。ふと前後左右の感覚がなくなり、体が傾いていく気がした。
だが、もう踏ん張ることもできなくなっていた。
ドサッ
体が何かにぶつかる衝撃を感じたが、痛みはない。誰かが抱きかかえてくれたことはなんとなく分かったが、自分がどうなっているのか考える余裕はもうなかった。ただただ苦しくて、空気を求めて喘ぎ続ける。周りでは、人が上から降って来たと騒ぐ声が聞こえてくる。
「千鶴!」
耳元で切羽詰まった声がする。真一の声だと、ただ漠然と思った。目を開ければ、霞む視界の中で、真一が見慣れない表情を浮かべていた。
別の学校に通う真一がここにいることを不思議に思うことはできなかった。肩で息をしながら少しでも多く空気を取り込もうと必死になっていたからだ。
「ちづ! ……え? 有馬君?!」
「音無さん! 大丈夫?」
「先生! 音無さんが倒れました!」
「! ねえねえ、あの人、誰?」
「陵蘭の制服だよね? 誰? 誰?」
「え? え? 何が起きてるの?」
千鶴の耳は荒い呼吸の向こうで仲間や先輩達の声はざわざわとした音でしかとらえることしかできなかった。
「千鶴。大丈夫だ。ゆっくり呼吸をするんだ。吸って、……そう、いいよ、そう、ゆっくり吐いて……」
耳元で真一の声が響く。その声を頼りに、千鶴はゆっくりと息を吐いた。
そして、今度はゆっくりと吸う。苦しくて何度も呼吸が早くなりそうになるが、その度真一の声が正しい呼吸へと導いてくれる。背を撫でる優しい手の感触に身をゆだねながら、千鶴は意識しながらゆっくりとした呼吸を続けた。
「あの!」
倒れた千鶴のもとへ3年の新井キャプテンが駆け寄って来た。彼女は千鶴の上半身を支えるようにして床に腰を下ろす真一に声をかける。その声に応えるように見上げた真一の整った顔を見て、新井は言葉を詰まらせた。目を大きく見開き、口をぽっかりと開けている。
「勝手に入ってきたことはお詫びします。すみません」
真一が素直に謝罪を口にしている。新井ははっと我に返り、動揺を隠せないまま視線を泳がせた。
「あ、いえ、……音無さんの具合はどうですか?」
「過呼吸のようです」
「か、過呼吸⁈ え、えっと……袋がいるのよね? ナイロン袋ならありますが、使いますか?」
『過呼吸』と聞いて、新井は驚きならも対応を思い出そうとしているようだった。
「いえ、ナイロン袋だと窒息する危険があるので、このまま呼吸が落ち着くのを待ったほうがいい」
千鶴を抱きしめたまま真一が冷静に応じる。
「新井!」
「あっ、はい! 先生、音無さんは過呼吸になったようです!」
すぐにバレー部の顧問の小谷が姿を現した。五十代の男性教諭だ。誰かが呼びに行ったのだろう。
「過呼吸⁈」
小谷はぐったりとしている千鶴に近づき、様子を確認する。
そして、改めて視線を真一に向けた。不審そうな眼差しを向けられても真一に怯む様子はない。
「顧問の先生ですか?」
「ああ、そうだ。君は?」
「僕は彼女の幼馴染みで、陵蘭高校の有馬真一って言います。今日はたまたま野球の応援に来ていたので、ついでに音無さんの様子を見ていたんです」
「ああ、そういえば、今日は陵蘭高校と試合だと言っていたな……」
真一のことを訝しんでいる様子の小谷だったが、野球部の練習試合があったことを思い出したようだった。納得した小谷は青白い顔でぐったりと真一に体を預けている千鶴へ声をかけてきた。
「音無、聞こえるか? 呼吸が落ち着いたら、このまま病院へ行くか?」
「……先生、すみません。だ、大丈夫です……」
うっすらと開いた目で小谷の姿を捉えると、起き上がろうと試みる。
だが、ふらつき上手く立つことが出来ない。そんな千鶴の身体を真一がしっかりと抱き留める。
「先生、僕の家は彼女の隣なので、僕が家に送り届けます」
真一の提案に、小谷は驚きの表情を浮かべた。
「君が家に送る?」
こくりと頷く真一に対し、明らかに困惑した様子で小谷は考え込む。
「……では、少し待ってください」
真一はポケットからおもむろにスマホを取り出すと、すぐにどこかへ電話を掛けはじめた。
「……真一です。今、東校に来てるんです。……はい、野球の練習試合で。……ええ、はい。それで、千鶴が練習中に過呼吸になったようなので、おれが連れて帰ってもいいですか? ……はい。いえ、それは大丈夫です。あ、千鶴の顧問の先生に代わっていいですか?」
真一は自分のスマホを小谷へ差し出した。
「音無さんのお母さんです。今、僕が連れて帰る許可はいただきました。確認してもらえますか?」
小谷は真一とスマホを一瞬見比べていたが、すぐにそのスマホを受け取り、千鶴の母親と話をはじめた。
「先生、音無さんの荷物を持ってきました。私も付き添います!」
いつの間にか舞が千鶴の荷物を持って現れた。そのことで小谷も安心したのか、真一へ千鶴を託すことに決めたようだった。
そうこうしている間に、千鶴の呼吸もかなり安定したものになっていた。
「三嶋も一緒なら安心だ。音無の親御さんへも言ってあるんだが、本人は大丈夫だと言ってはいるが、具合を見て、必ず病院へ行くようにと。それから、あとで報告を頼むぞ三嶋」
「はい!」
そして、ようやく顧問の小谷から千鶴を連れ帰る許可を取った真一は、恥ずかしげもなく千鶴の体を軽々と抱き上げると、その場にいた者達が茫然と見守る中、颯爽と歩き出す。もちろん、舞と要を引き連れて。
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