第34話 ごめんなさい。
傷ついた表情を見せる千鶴の姿を、笑みを浮かべた女達が見つめていた。
さらに、長い髪の女が追い打ちをかけてくる。
「貴方みたいな人では、到底無理なのよ。傷つく前に離れた方がいいわ。彼、見た目はとても綺麗だけど、感情が欠けているでしょ? まるで観賞用のビスクドールのようにね」
「!」
弾かれたように千鶴は顔を上げた。
(感情が欠けてる? 観賞用?)
怒りが傷ついた心の痛みを凌駕する。これ程の怒りを感じたことはない。
もちろん、この怒りは自分に向けられた蔑みからではない。真一に対して発した女性の言葉に対しての怒りだった。
突然、人が入れ替わったかのように激しい目で真っすぐに睨みつけてくる千鶴に対し、髪の長い女性は一瞬怯んだ。
だが、すぐにむっとした表情を浮かべる。
「貴方のことを思って言っているのよ!」
「……あなた、誰なんですか?」
問う声に怒りが滲み出る。
相手がいくら年上だろうと、何だろうと関係ない。真一を傷つけるような事を言う人は誰だって許せなかった。
「私? 以前、彼と付き合っていたの」
「!」
千鶴の目が大きく見開かれる。
言葉を失い、茫然と立つ千鶴の姿に女は満足したように満面の笑みを浮かべた。勝ち誇ったように顎をわずかに上げる。傲慢にさえ見える仕草で左手を持ち上げた。一目見て高価だとわかる時計を千鶴に見せつける。
「ねえ、この時計は貴方に似合うと思う?」
「……いいえ」
固い表情のまま千鶴は答えた。
「ふふふ。自分の事を良く分かっているじゃない。有馬真一はこの時計と同じなのよ」
女は愛おしそうに時計を撫でる。
「別に私は彼に感情なんて求めてないの。それにね、彼は私のそばに居る方が幸せだったのよ。貴方といれば、間違いなく彼のセンスが疑われるでしょ? それに比べて、私といれば正しく評価されるの。だって、一緒にいた時は、お互い引き立てあっていたもの」
女は自分の言葉に酔いしれるように徐々に饒舌になっていく。
だが、千鶴は再び女をキッと睨んだ。
「私のことは何を言ってもいいです。でも! 真一をそんな電池で動くような時計と一緒にしないでよ!」
まるで訴えかけるように千鶴は叫んでいた。
「そんな……ですって! この時計がいくらすると思っているの?!」
女は肩を怒らせる。
爪を立てて威嚇する猫に対し、自分が主なのだと教えるように。
ふと視界が陰った。女からの攻撃的な視線から千鶴を庇うように誰かが千鶴の前に立ちふさがったのだ。
その背は良く知ったもの。真一の背中だった。
「やあ、久しぶりだね。麗子さん」
「……有馬……真一……?」
麗子と呼ばれた女は声を震わせた。それは感激からではないことは千鶴にも分かった。真一の背後にいた千鶴には、麗子の顔は見えない。もちろん、真一の表情も。
「俺の連れに何の用ですか?」
再び真一が声を発した。
その声はいつもより低かった。まるで知らない男のもののようにさえ聞こえた。口調は穏やかなのに、聞いた者の心を凍らせのに充分な冷たさがあった。
繁華街の片隅、喧噪の真っ只中にいるはずなのに、この場だけがまるで見えない何かに覆われてしまったかのような不思議な静けさが四人を包んでいた。
「……行こう」
静寂を断ち切ったのは真一だった。麗子達にくるりと背を向け、まるで千鶴を庇うように腕を千鶴の背に回し、歩くように促す。
千鶴は無言で従った。頭の中も感情も、いろんなものが混ざりあってぐちゃぐちゃになっていて、うまく思考できなくなっていた。
「千鶴」
どれほど歩いただろう。
突然、真一が千鶴を名前で呼んだ。回らない頭で僅かな違和感を感じながらのろのろと顔を上げる。真一が瞠目している。慌ててズボンのポケットからハンカチを取り出した。痛々し気な表情を浮かべ、千鶴の目元を拭う。
そこで初めて千鶴は自分が泣いていた事に気付いた。
「……ごめんなさい」
ぽろりと謝罪の言葉が千鶴の唇から零れ落ちた。
「え……?」
思いつめたような顔で千鶴の目元を拭っていた真一の手が止まる。
「ごめん、真一。……ごめん───」
何度も謝罪の言葉を繰り返し、涙をぽろぽろと流し続ける千鶴の姿に、明らかに真一は動揺し始めた。
だが、千鶴には真一に謝るしかなかった。そう、蓋が開いてしまったのだ。
『ちづの心の中に、蓋をしている気持ちがあるんじゃない?』
以前、舞が千鶴に言ったように、確かに胸の奥に蓋をしていた。
もちろん、それは無意識でのことだ。
それが今、封じていた記憶と共に、いろんな感情を伴い千鶴に襲いかかってきたのだ。その記憶の中に、あの麗子という女性もいた。彼女は、以前真一の玄関先で、彼の頬を叩いた女性だった。
「千鶴……」
ぽろぽろと涙を流し続ける千鶴の様子に、真一は平静を失った顔で見つめている。
「……私、自分のことしか考えていなかったの。ごめんね、真一。中学一年の頃、すごく苦しそうにしていたのに、声さえかけなかった。ごめん………。真一に嫌いだって言われるのが怖かったの。私のことをどう思っているのか知るのが怖くて、逃げてたの。自分が傷つきたくなくって、嫌われたくなくて……、真一はあんなに苦しんでいたのに……ごめん」
気付けば千鶴は真一の腕の中にいた。それもきつく抱きしめられて。
いつもなら、動揺して怒るか、逃げ出していただろう。
だが、今まで封じ込めていたものが解き放たれ、千鶴は放心状態で真一に抱きしめられたまま青い空を見上げていた。
どこまでも続く青く広い空を。
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