第26話 ごめん、真一。

「あいつは凄いよ。一年でレギュラーなんだからね」


 グランドの金網越しに有馬真一と佐倉要は野球部の練習を眺めていた。彼らの目の前で、森口匡(もりぐちたすく)が快い音を響かせて白球を空高く打ち上げる。その白球の軌道を目で追いながら真一が口を開いた。

 

「……………わざと一発殴られてやったんだろ?」

「え?」


 要は隣に立つ真一の整った横顔を見つめる。それに応じるように真一がゆっくりと首を巡らした。なんでも見透かしていそうな澄んだ瞳で要を捕える。


「今朝の話」

「は、……はは、何でバレたのかな? ……俺が一発ぐらい殴られておかないと相手の男の気が収まりそうになかったんだよ」


 照れているのを悟られたくなかった要は、ワザと真一から視線を逸らした。

 だが、逸らした本当の理由は、この心臓の動悸だ。真一の真っすぐな眼差しの前で、平気でいられる者などいないだろう。そもそも要はいつも真一の視界の外に置かれているため、これほどじっと見つめられるなんて初めての事だったのだ。


「……佐倉、おまえはいい奴だな」


 幻聴のような真一の声に、要は物凄い勢いで振り返った。


(え? 何? 何が起きてる? 俺の耳、今おかしい?!)


 まるで白昼夢の真っ只中にいるような状況に、要の思考は大混乱を引き起こしていた。

 さらに要の妄想が具現化したように、彼を見つめる真一はとても優しい笑みを浮かべている。


(ああ~、勘弁してくれ!) 


 要は頭を掻きむしりながら身悶えたくなる。

 自分が惹かれている男はとてもやっかいな男だった。この男は自分の言動でどれほど相手の心が乱されているかまったく理解していない。

 天然のたらしだった。

 さらにツンデレときている。


(どれだけ、俺を好きにさせたいんだよ!)


 真一に心を乱されまくっている者の一人である要は、案の定彼の稀な笑顔で褒められ、動揺しまくっていた。そんな要の姿を黙ってみつめていた真一が再び口を開いた。


「佐倉に頼みがあるんだ」

「! な、何? 俺、有馬の頼みなら何だってするよ!」


 自ら下僕に身を落とし、今にも縋り付きそうな勢いの要に、真一は『ぷっ』と噴き出す。 


「じゃあ、頼むよ」


 さらに打ち解けた表情を見せられ、要が感極まって真一に抱き付いたのは言うまでもない。速攻で、鳩尾に一撃をくらったことも。



                ************* 



 真一はいつものように千鶴の解答を添削しながら、彼女の視線を強く感じていた。


「───今日は、間違いが多いね。どうしたの? ……キノ?」


 真一が顔を上げれば、ぼんやりとしていた千鶴は一瞬の間を置き、はっとした表情を浮かべると慌てて顔を背けた。

 

「あっ……ま、間違いね。う、うん……間違った字を十回ずつ書くんだよね……」


 千鶴は真一の顔を見ないようにしながらあたふたとノートを受け取り、現実逃避をするかのように一心不乱でノートに書き始めた。

 やはり千鶴の様子は明らかに不自然だった。真一が訪れた時からまったく落ち着きがない。三嶋舞から話を聞いていなければ、彼女の挙動不審にやきもきさせられていただろう。

 真一は千鶴を眺める。

 こんなに側にいても、やはり彼女の心の中は見えない。今何を考えているのかも分からない。いつも千鶴は真一の心を揺さぶる。


(もどかしい………)


 子供の頃はそんなことはなかった。単純な千鶴の考えていそうなことは、だいたい見当がつくからだ。 

 だが、今は自分の期待や不安が邪魔をして、千鶴の言動や仕草にいちいち振り回されてしまう。『恋は脳の誤作動』とはよく言ったものだ。千鶴への想いが『恋』なのだと自覚してから、真一は千鶴に対してだけは冷静に対応できなくなっている。だいたい3年経てば恋も冷め、誤作動も正常に戻るはずなのだが、『恋』が『愛』に変わってしまっては、今度は惚れた弱みで、いつのまにか千鶴至上主義になってしまっている。


 そばに居られれば幸せ。

 笑顔が見られるだけで幸せ。

 

 しかし、過去の自分の過ちのせいで、いつも千鶴のそばに居られない。まるで千鶴の影のように側に張り付けていた頃が恨めしいほどだ。

 その上、警戒されている千鶴から笑顔を向けられることはさらに減ってしまっている。このままでは不安と欲求不満で、どうにかなってしまいそうだった。


ブーブーブー


 突然、真一のスマホが振動しはじめた。

 その途端、千鶴の体がびくりと震え、不安そうな目が真一に向けられた。真一は手にしていた赤ペンを折れそうなほど強く握る。そうでもしないと、千鶴の両肩を強く掴んで、その不安そうな表情の理由を、本当の気持ちを、強引に聞き出そうとしてしまいそうだった。


「……はい」


 必死で感情を押えながら電話に出れば、陽気な声が耳に飛び込んできた。その声を聞いた途端、ふっと肩の力が抜けていく。

 冷静さを取り戻した真一は、視線の先を千鶴の顔にひたっと置き、スマホから聞こえてくる声の主の名前を口にする。


「佐倉」

「!」


 明らかに千鶴の顔が青ざめていく。傷付いた表情で見つめられれば、今度は抱きしめたい衝動にかられる。

 

(まだ、駄目だ───)


 真一の心の葛藤を援護するように聞こえてくる佐倉の陽気な声に神経を集中させる。これでしくじれば、きっと佐倉に笑われてしまう。そう思えば、再び冷静になることができた。


「───え? 話がしたい?」


 そう言って、真一は自分のスマホを千鶴の目の前に差し出した。突然の事に、驚いた表情で千鶴は真一とスマホを見比べている。


「キノ、佐倉が君と話がしたいらしい」

「え⁈ ……さ、さくらさんが? 私と⁈」


 目を真ん丸にして、自分を指さしながら聞いて来る千鶴の姿は可愛いかった。安心させるように笑顔で頷いて見せれば、彼女は顔を引き攣らせながら、恐る恐る真一の手からスマホを受け取り耳に当てる。


「……あ、あの、……は、はじめまして、音無千鶴です………」

『は~い。こんばんは! 佐倉要で~す』

「え………あれ? さ、さくらかなめ………⁈ 君!」

『はい。そ~うで~す。俺も、はじめましてだね。でも、有馬からは学校で千鶴ちゃんの話はいっぱい聞いているよ』

「えっ?! 真一が学校で私のことを?」

『うん。そう。聞きたい?』

「あ、はい! 聞きたい! ……です! あっ………」


 すっと手からスマホを抜き取られ、千鶴は遠ざかっていくスマホを唖然とした表情のまま目で追う。真一はにっこりと千鶴に笑顔を向けると、再び自分のスマホを耳に当てた。


「………佐倉、調子に乗るな」

『え~、いいじゃん。あっ、もういいのか?』

「ああ。……佐倉、ありがとう」

『! ……へへ、じゃあ、また明日!』

「ああ、また明日」


 通話を終了させた真一が千鶴へ視線を戻し、ぎょっとする。彼女はテーブルに突っ伏していた。


「キノッ⁈ どうかした? 気分が悪いのか?」


 心配する真一の声に応えるように、千鶴の頭が左右に小さく揺れた。

 

「それなら、どうして───」


 想定していなかった千鶴の様子に動揺をかくせない真一の耳に、消え入りそうな千鶴の声が聞こえてきた。


「……ごめん、真一」

「え?」


(なぜ、謝罪?)


 千鶴の心の内は読めないまま、さらに困惑する真一。

 真一の明日はどっちだ?

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