第8話 消せない過去。

 小学生6年生の秋。

 有馬真一と音無千鶴は、いつもの遊び仲間達とひとしきり遊んだ後、夕焼けに染まる道をにぎやかに帰っていた。


「わあっ! 面白~い! 困った顔の猫がいる!」

「すっげぇー、マジで変な顔! 眉毛猫だ!」

 

 空地の隅に変わった模様の猫が居るのを目ざとく見つけた千鶴が駆け出した。一緒にいた数人の友遊び仲間達も大笑いしながらその後に続く。 

 道路に一人残された真一は、呆れた表情を浮かべながら溜息をついた。

 千鶴は好奇心旺盛で、楽しそうだと感じたら、すぐに行動にうつすのだ。そのせいで、一緒にいればいつも騒動に巻き込まれてしまう。

 ふと走って来る車に気づいた真一はそちらへ顔を向け、道の端へ避けた。

 そして、再び千鶴達へ視線を戻した。


「早く帰らないと、すぐに真っ暗になるよ!」


 そう叫んだ真一の背後で車が止まる音がした。何気に振り返ろうとした真一の口を、突然背後から伸びて来た大きな手が塞ぐ。


「ううっ!」


 一瞬何が起きたか分からなかった。

 だが、強い力で背後へ引きずられる恐怖と苦しさで、真一は必死になって口を覆う手を退けようともがいた。


「早く乗せろ! 何をもたついてやがる!」

「うるせぇ! くそっ、こいつ女のくせに凄い力で暴れやがるんだ!」


 背後からはガラの悪い話し方をする野太い男達の声がする。顔を隠したくて髪を中途半端に伸ばしていたことで女だと間違われていた。


(攫われる!)


 恐怖と苦痛のあまり涙で滲んだ視界の中に、異変に気付いた仲間達がこちらに顔を向けている。みんな状況が把握できず、ただ茫然と立ち尽くしていた。


「真一!」


 だがそんな中、千鶴だけが弾丸のように飛び出してきた。空地を突っ切って駆けて戻って来る。


(ダメだ! 危ない! 来るなっ!)


 どれほど叫ぼうとしても、口を塞がれているせいでくぐもった声が漏れるだけだ。どれほど抗おうとしても力の強い大人の男に勝てるはずもなく、車の中へ押し込まれていく。


「うりゃーっ!」


 勇ましい雄叫びを上げながら千鶴が真一を掴んでいる男の腕に向かって飛びかかった。


「痛ってぇっ!」


 耳元で男の叫び声があがった。拘束していた手が外れ、その反動で真一の体は投げ出された。勢いよく草むらへ転がり落ちる。すぐに顔を上げ向けた視線の先では、見知らぬ男の手に必死で噛みついている千鶴がいた。苦痛に顔を歪めた男が千鶴の短い髪を鷲掴みにして、必死で引きはがそうとしている。 

 だが千鶴は放そうとしない。体が小刻みに震えるほど力を入れて噛みついている。激怒した男が握りこぶしを振り上げた。


「やめろーっ!」


 真一は声の限り叫んだ。

 だが、その声は空しく辺りに響いただけで、目の前で千鶴の小柄な体が空を舞う。それはまるでスローモーションのようにしっかりと真一の目に焼き付いた。必死で伸ばした手は千鶴には届かない。投げ捨てられた人形のように千鶴の体は地面を滑り、そのまま動かなくなってしまった。


「千鶴────っ!」


 喉の奥から絶叫が迸った。躓き、転がるように千鶴の側へ駆け寄る。


「千鶴! 千鶴! 千鶴……」


 どれほど名を呼んでも、千鶴に反応はない。後から駆け付けてきた仲間達も必死で千鶴の名を呼んでいる。

 さすがに状況の異様さに気付いた大人達が近づいて来た時には、すでに男達の姿は車ごと消えていた。遠くから救急車とパトカーのサイレンの音が近づいてくる。

 その場が騒然となる中、色んな声や音が真一を取り囲んでいた。

 だが、すべての音か真一にはひどく遠い。まるで水の中にいるように、自分の壊れそうなほど激しく打つ心臓の音と、荒い呼吸の音だけが耳の奥で響いていた。 

 だが、それさえも一瞬で聞こえなくなる。千鶴の傍らに膝を付き、寄り添う真一の目は地面に釘付けになっていた。千鶴の左腿の下の土が徐々に赤く染まっていくのを。

 救急隊員が到着し、千鶴はすぐに近くの病院に担ぎ込まれた。脳震盪を起こしていた千鶴はそのまま眠り続けた。三日後、周りの心配を他所に目覚めた彼女が開口一番に言った言葉は『お腹がすいた』だった。その後の検査でも脳に異常は見受けられなかったため、一週間で無事に退院することとなった。

 一方、真一を攫おうとした男達は事件から数日で捕まった。スピード逮捕となったのは、目撃者が多かった事と、何よりしっかりと残っていた千鶴の歯形が有力な証拠となったからだ。手配されていた男達だったらしく、千鶴の功績は表彰ものだと言われたのだが、単身赴任先から血相を変えて戻ってきた千鶴の父親がこれ以上彼女が危ない事に自ら飛び込んで行ってほしくないからと丁重に断った。

 すべてが元通りの生活に戻ったように思えた。

 だが、千鶴の左腿にはその時の傷が今も消えずに残っている。その傷は深くはなかったものの、長さは20㎝にも及ぶ。彼女が叩きつけれた地面には、硝子の破片が僅かに出ていたのだ。

 

(僕は、千鶴の傍にいてはいけない……)


 包帯の取れた千鶴の傷を目の当たりにした瞬間、真一の心を暗い闇が覆った。

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