第3話 

夢結の場合 前編


舞い上がっていた。 

彼に声をかけられて、自分の全てが認められた気がしていた。


夢結(ゆい)は美大に通う女子大生。

絵本作家になりたくて、美大を受験し、兵庫県の片田舎から京都へ上洛してきた。

京都の町は何もかもが輝いて見えた。

これが世界に誇る歴史の町、建築も食べ物も人々も、どれもが優美に見え、ここに住んでいる自分が誇らしく思えた。

古い物と新しい物が混在する町は、毎日が新鮮で楽しかった。


彼ー、彼というのは、夢結が憧れていた、絵本作家、長妻悦朗のことだ。

悦朗は、歳は45歳、40歳の時に挿絵専門作家から絵本作家に転身し、今飛ぶ鳥を落とす勢いの売れっ子作家だ。

彼の作風は、まるで少年の心そのもので、これを描いた人はどんなに素敵な人だろう、と夢結は胸を高鳴らせていた。

彼女がこの大学を選んだのも、悦朗が特別講師で月1回、埼玉から上洛すると、大学のパンフレットに載っていたからだ。

夢結は、自分の世界を持っていて、あまり人を寄せつけない感じのする子だった。

赤い縁の分厚いレンズのメガネに、ボブカット、服装はいつも古着をオシャレに着こなしていた。

ほとんどの時間を独りで過ごしていても平気で、それが心地よいとさえ思っていた。

そんな彼女の心のドアの鍵を、ずっと前から持っていて、簡単に開けてしまったのが悦朗だった。


悦朗は彼女の好意ある目線に気づいていた。

彼は、女の子と仲良くなるのは得意だった。

歳の割には美男子で、清潔感があって、若々しい。

ファッションはユニクロと高級ブランドを上手く組み合わせて、嫌みのない、親しみやすい格好だった。

夢結と違って、周囲にはいつも彼を慕う人が集まったいた。


ある時、悦朗の講義が済み、彼が片付けをしている様子を、夢結は一人教室に残って見ていた。


「何か質問でもあるのかな」


悦朗は優しく声をかけた。


「あ…、いいえ、その…」


夢結はドキッとして、あたふたした。


「質問は長くなるので…先生、もうお帰りでしょうから」


と、遠慮して「いいです」と手を振った。


「新幹線の時間を遅らせてもいいんだよ。早く帰ってもつまらないんだ」


悦朗には、妻と産まれたばかりの子供がいた。

彼から、家庭に対して素っ気ない言葉が出て、夢結はちょっと驚いた。


「それは…どういう…?」


夢結は恐る恐る尋ねた。


「マタニティーブルーってやつかな。僕が家を空ける事が多いから、育児は奥さん任せでね。そのせいか、僕を毛嫌いしてるみたいなんだ。子供は大好きなんだけどね」


夢結は、この人はどうしてこんな事まで赤裸々に私に話すのだろう、と不思議に思った。


「君のことを知りたいからだよ」


心の中を読み取ったように、ニンマリして悦朗は答えた。


「僕のことは話したよ。今度は君の番だ」


それから二人は、学生街の繁華街にあるタリーズコーヒーで語り合った。

直接話したのは初めてだったが、夢結は彼の作品はどれも丁寧に、何度も何度も読んでいるので、とても詳しく感想を言うことが出来た。

それを、悦朗は素直に喜んで聞いていた。


「こんなに褒められたら、ケーキもご馳走しないとな、食べる?」


悦朗に勧められて、夢結はハッと我に返った。


「私ったら、いっぱい喋っちゃて…すみません。もう、新幹線の時間ですよね」


と、夢結は肩をすぼめて恥ずかしがった。


「いや、そんな事言ってるんじゃないんだよ。ケーキ、食べない?僕は食べるよ」


悦朗は、絵本に出てくるような少年の笑顔でそう言った。


二人が深い関係になるのに、時間はかからなかった。

悦朗が上洛する日は、夢結は午後の講義を休んで、自分のアパートの部屋で彼と過ごした。

愛欲まみれた、ふしだらな関係だった。

それでも悦朗は、時々夢結にロマンチックな事を言っては、無謀と思えるような夢を見せるのだった。


「君は絵を止めて、僕のお嫁さんになりなさい。10年前だったらきっと言ってる」


「君のご両親に会ってみたいな、きっと素晴らしい方なんだろう。君をこんなに上品に育てたんだから」


悦朗はベッドで、夢結を褒めて褒めて褒め倒した。


「かわいい、この小さい手、この小さい耳たぶ、この小さい口…」


と言って、彼女のあちこちにキスをしては、たっぷりと愛し抜いた。

夢結にとって、彼は初めての恋愛相手だった。

だからいつも、彼を満足させているか不安だった。

私なんかじゃ、いつかきっと飽きられるー


ある日、悦朗は、夢結の部屋で彼女が作ったナポリタンを食べていた。


「美味しい、お店みたいだ」


いつも悦朗は紳士だった。

食べ終えて夢結がまったりしていると、東京駅で買ったというフレーバーティーを、悦朗自らカップに注いだ。

その時、夢結のLINEの着信音が鳴った。

何気に見ると、知らない女性からだった。


「渡辺淳一を地で行くの?」


夢結には全く意味が分からなかった。


「どうしたんだい?」


悦朗は机を挟んで向かい側に座っていた。

そして手招きをして、


「こっちへ来なさい」


と言い、夢結にキスをした。

いつものことだが、夢結は食べた後のキスは気持ち悪かった。


「先生、ケチャップが…私、そういうの…」


と、夢結が嫌がったが、悦朗はお構いなしだった。

そのまま、夢結のブラウスのボタンを外して、首や胸にキスをした。 

夢結は、彼の口についたケチャップが、自分の体につくのが堪らなく嫌だったー。


後編へ続く。





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