第2話 

満男の場合 


激しい雨の音がする。

アパートの階段を覆う、トタン屋根に雨が当たって酷くうるさい。

満男はいつもそれが耳鳴りだった。

テレビをつけても、雨の音は容赦なく聞こえてくる。

そんな中を、ガツンガツンと、重い足取りで階段を登ってくる音がした。

そして満男の部屋を乱暴にノックすると、返事を待たずに遠慮なくドアを開けた。


「なんだ、おじさんか。びっくりしたあ」


満男の故郷にいる叔父の満次が、りんご100パーセントジュースの一升瓶を抱えてやって来た。

満次はトラックの運転手をしており、東京のアニメ専門学校に通う満男のアパートにちょくちょく顔を出した。


「近くを通ったもんだからさ、酒の一升瓶じゃねくて悪いけど」


満次は玄関で靴を脱いで、


「あとからお客さん来るから、あれ、もしかしてもう来てる?」


いつも通り、満次は遠慮なく部屋に上がり込むと、用意してあった鍋の前に座った。

満男は、おじさん何を言ってるんだ?と不思議に思いながら、台所を見ると、暗がりに母の美智子が立っていた。


「母ちゃん?いつ来た…」


満男はそう言いかけて、驚きながら台所の電気をつけた。


美智子は、バケツをひっくり返した水を頭からかぶったように、水浸しになっていた。


「母ちゃん、どうしてそんなに濡れて…あ、タオルタオル!」


満男は慌てて、洗面台にあるタオルを取りに走った。

しかし、ラックの引き出しを全部開けても開けても、タオルは1枚も見つからない。


「あれ?なんでだ?ここにいつも置いてー」


「満男、いいからいいから、早く行くよ!」


美智子の明るく元気な声が、なんだか懐かしい気がした。いつも覇気があって、周囲を笑顔にした、あの声だ。


次の瞬間、パッと雨が上がり、晴れやかな空が満男の頭上を覆った。見渡す限り美しい青空と、どこからか、陽気で子供心をくすぐるような音楽が流れてきた。

満男はすぐにここが、ディズニーランドだと分かった。

美智子を見ると、頬が蒸気して真っ赤になっていた。ふる里の寒い冬に、同じような頬にり、りんごのようだと皆に言われていた。

小じわはなく、きれいにむけたゆで卵のように、つるんとして美しかった。


「いいかい、満男。こういう人が沢山いるところに来たら、絶対にお母ちゃんの手を離したらダメだよ」


美智子はそういうと、すでに成人している息子の手をぎゅっと握りしめた。


そして二人は、アトラクションをいくつか乗り、パレードを見て、辛いことや悲しいことなど何もない夢の国を、心ゆくまで楽しんだ。

満男は笑った、笑っている母を見て、笑ったーーーそう、ずっと笑っていたいと思った。



「みっちゃん、みっちゃん!」


満男は何度か瞬きをして、眉をしかめながら、なんとか目を開けた。目に何か重しでも載っているみたいに重い。


「お義父さん、みっちゃん起きました」


可愛らく、瑞々しい女性の声がして、気づくと、満男は彼女に膝枕をしてもらっていた。

彼女ー…、そうだ、彼女はよりちゃんだ、満男は心の中で呟いた。

名前を頼子といい、満男の婚約者だ。

満男は頼子を家族に紹介する為、ちょうど祭の日に合わせて帰省していた。

故郷の祭は、田舎町らしい小規模なものだが、歴史はかなり古く、地元に残っている少数の若者達が継承に奮闘し、またそれを誇りに思っていた。

満男も毎年東京から、この祭に参加するために帰ってきていた。

今年は婚約者も連れて、特別な祭になるはずだった。


「大丈夫?みっちゃん」


頼子が満男の頭を擦るように何度も撫でた。


「ちょっとの間だけど気を失ってたのよ、それでさっき急に笑いだすから、びっくりして」


頼子の目は涙で濡れていたが、安堵の表情が見えた。


「お前、祭の屋台から落ちたんだよ」


父の満の声だった。


祭の屋台は二階構造になっており、上部分がクルクル回転する仕組みになっていた。

そこには、今年めでたい事があった人が乗ることになっており、満男が選ばれていた。

だが、はしゃぎ過ぎた満男の同級生達が、面白がってしつこく回転させた為、満男はバランスを失い、屋台から落ちてしまったのだ。


満男はぼんやりと現実を理解してきた。 

僕は実家の前の道で、激しく屋台を回され、ちょうど庭の花壇の上に落ちた。

母が好きだったガーデニングの為に作った庭だった。

今は誰も管理していないので、荒れ放題だった。 


「母ちゃんが助けてくれたのかもな。ちょうど土の上に落ちるなんてさ」


同級生の一人が、満男が意識を戻したのを見て、目を潤ませながらそう言った。

満男は、祭のハッピを着た男性陣から、「よかった、よかった」と声がするのを、まだ半分夢心地で聞いていた。

そして、祭の為、開けっ放しになっている家の縁側の奧のーー

仏壇を眺めた、と言うか、想像した。


先の震災で、津波の被害に遭い、母は亡くなっていた。

母はリウマチを患い、動くのも辛かった。

元気だった母が、年々気弱になり、外出するのも億劫になっていた。

津波の警報が鳴り響く中、まだ高校生だった満男は、高台に登ろうと母の手を掴んだ。

だが、母、美智子は、頑として家を離れようとはしなかった。


「母ちゃんは大丈夫だから、満男、父ちゃんと先行ってな」


「ダメだよ、もうそこまで波がきてるって、近所の人もみんな…高台に!」


満男の家は、海からかなり離れた山間のところにあったので、こんな所まで波はこないと思われていた。

だが、予想を反して、波は怒り狂った猛獣のような早さで向かってくる。

そして、船を、家を、町を、人を、全てを壮大な力で飲み込んでゆく。


「母ちゃん、いい加減にしろ!早く!」


父の満が、ぴしゃりと、美智子の頬を叩いた。勿論、普段から暴力をふるうような夫ではなかった。目を覚ます為に、愛の平手打ちをした。


「今はとにかく逃げるんだ!」


満と満男、二人で無理やり美智子を玄関まで連れ出すと、美智子は渾身の力で二人を突き飛ばし、玄関の鍵をかけた。


「お願いだから、母ちゃん、この家に居たいの。この家と運命を共にしたいの、お願いだから、お願いだから、早く逃げて!」


美智子は泣きながら懇願した。

満は満男と、無言のまま目を合わせると、高台に向かって走った、走った、走った!

近所の人達はすでに避難しており、満男達を「早く早く」と呼んでいた。


「あれ、美智子さんは?」


近所の人に聞かれ、満は、


「駄目だ、意地でも避難しないってー」


そう言いかけて、町を見下ろすと、今まで見たことのない、絶望的な光景が広がっていた。

最強の力を持った津波が、町を覆い尽くしている。


「母ちゃん、母ちゃん!」


満男はまた家に戻ろとしたが、父や近所の人に止められた。


誰かが、「ここも危ない!もうひと山、上に登ろう!」と言い、皆が賛同したー。


そしてー


母は家の中で、水浸しになりながら、倒れて亡くなっていた。


「津波で母ちゃんを亡くすなんて、思いもよらなかった…」

「あの時、絶対に手を離すんじゃなかった」

「玄関をぶち破って、おんぶして、走れば間に合ったか…?」

「父ちゃんにひっぱたかれた頬は、赤く腫れてなかっただろうか」


色んな後悔の念が、優しい満男をずっと苦しめていた。

夢の中で、手を離すんじゃないよ、と母は言っていた。

でも、笑っていた、ただ、笑っていたー。


母の写真の隣には、叔父の満次の写真も飾ってある。

満次は、トラックで海沿いの道を、大好きな吉幾三のCDを聞きながら運転して、津波にのまれたと思われた。


「ラジオも町の警報も聞いてなかったんでねえか」


と、満は肩を落として言った。


調子外れの祭囃子の奧のほうから、小さく救急車の音が聞こえた。


「まだこれからだぞ、満男。まだまだ死ぬ訳にはいがねんだから。頼子さんを幸せにする仕事が…残ってるんだから」


満は満男を抱きかかえて、救急車に向かって、手を上げた。


そういえば、母ちゃんもおじさんも僕の東京のアパートに来たことなんてないよな…


満男はまた少し嬉しくなって、微笑んだ。

ありがとう、母ちゃん。

ありがとう、おじさん。


生まれて初めて乗った救急車のなか、すでに冷静になっていた満男だった。


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