彷徨う灯
@aoyama818
第1話
公子の場合
小さな力で、スカートの裾をくいっと引っ張られて、公子は後ろのめりになった。
見ると、三、四歳位の女の子がすぐ傍に立って、公子を見上げている。
あら、誰だったかな、見たことある子だな…
見覚えのある女の子は、商店街を指差して、
「あそこのお蕎麦屋さんだよ、安くて美味しいの」
と、公子に早く行こう、と誘った。
公子はあれこれ考えてみたが、どうしても、この子が誰なのか、思い出せなかった。
だが、そんな事はどうでもよいことにも思えた。
多分、自分の長男か次男の同級生だろう、と心のなかで思っていた。
蕎麦屋の暖簾をくぐると、女の子と歳の近いであろう、男の子がカウンターに座っていた。
「遅かったね」
「ずっとずっと待ってたんだよ」
男の子にそう言われて、公子はすかさず、
「ごめんね」
と、言って、女の子と二人、隣の席に座った。
しばらくすると、暖かい蕎麦が運ばれ、それを三人で食べた。
小さい子達は、蕎麦を上手く吸えなかったので、公子が箸で短く切ってやったり、こぼした蕎麦をティッシュで片付けたりした。
結局、公子は蕎麦を全然食べれずにいたが、この子達のお世話をしていると、何故か満足した。
「あー、美味しかったね」
女の子が言った。
「もう帰ろうよ」
男の子が言った。
公子は細かい事が全く考えられずにいた。
振り返ると、そこには、すらっとした足の長い 白髪の紳士が立っていた。
よく見ると、それは公子の父親だった。
「ごめん、ごめん、面倒見てもらって。どうしても行くって聞かないから」
と、公子の父親は、子供達の手を引いて、帰ろうとした。
「お父さん、待って、まだ私達、お蕎麦食べてないから」
公子の父親は振り返ると、また蕎麦屋のカウンターに座り、ただただ黙って、公子が食べ終わるのを、穏やかな表情で見ていた。
公子は何故かそれが心地よかった。自分が小さい頃に戻ったような安心感があった。
しかし、いくら食べても食べても、蕎麦は無くならなかった。
「きみちゃん、悪いけど、この子達連れて先に家に帰っておくね。ゆっくり食べなさい」
きみちゃん、そう呼ばれて、はっとした。
私をそう呼ぶのは、お父さん、そして…
「きみちゃん、きみちゃん!」
公子ははっきりした声に呼ばれて、うっすら目を開けた。
真っ白で単調な天井が見えた。
「手術、無事に成功しましたよ」
公子は看護師にそう言われて、頭のなかを整理した。
白衣姿の最近よく聞いた声、担当の看護師さんだ…
そして、ベッドを挟んだ反対側には…
心配そうに公子をのぞき込んでいる旦那の英輔が立っていた。
「私…」
現実を把握しかけて、公子は涙をポロポロ流した。
「もう大丈夫だよ。手術は成功したって」
英輔が手を握って、優しく微笑んだ。
そう、この笑顔、全く嘘のない良心の塊のような、永遠に広がる青空のような、この笑顔を信じて彼と結婚したのだ。
公子は下腹部を触ってみた。
1ヶ月前癌が見つかり、この度、子宮摘出の手術をしたのだった。
もう、ここには、あの子達が居た場所はないんだ…
気づけば自分は沢山の管と繋がれている。
固く漂白されたベッドのシーツは、いかにも病院という感じで落ち着かない。
麻酔のお陰で、まだ術後の痛みは感じなかったが、違和感だけがそこにあった。
公子と英輔には、三人の子供がいる。
そして、公子の年齢は45歳で、もう妊娠することは難しい年齢になっていた。
だが、手術となると、恐怖を感じずにはいられなかった。
しかし、今流れ出る涙は、恐怖によるものではない。
公子は、段々と、あの夢のなかの小さな女の子と、男の子の正体が分かってきた。
「一瞬、心拍が落ちて心配しましたけど、先生が上手く処理されましたんで、手術は大成功です。安心してくださいね、もう終わったんですよ」
看護師が公子をなためるように言うと、英輔に後はお委せします、と頭を下げて、病室を出て行った。
「英輔さん…私…私、ちゃんと供養してあげたい。ずっとずっとしてあげたかったのに、何にもしてあげれなかった」
公子は声を絞り出だして言った。
「何のこと?お父さんのことかい?お父さんならー」
英輔は訳が分からないといった表情を浮かべた。
「違うの、分からないの?私は忘れなかった、毎日毎日、手を合わせたかった、忘れてはなかったけどー」
公子は嗚咽して言葉を詰まらせた。
そうだ、あの子達は、私が流産した子達だ。
三人の子供たちを出産する、その間に二回、出血といっしょに流れてしまった。
二回とも、まだ妊娠初期だったけれど、エコー写真には、ちゃんと2頭身になって、手足だってついていたじゃない。
英輔さんだけじゃない、私だって三人の育児にイッパイイッパイで、流産した子達のことまで考えてやれなかったー
公子はわんわん、子供のように泣いた。
ごめんね、ごめんね。
せっかく私のお腹に来てくれたのに、産んであげられなかった。
だけど、天国でおじいちゃんに出会ったんだね、おじいちゃんがお世話してくれてるんだねー
公子の父親も、昨年癌で急死していた。
夢のなかで、まだゆっくりしていろ、と言われた。
公子は涙を溜めて、また目を閉じた。
もう少しあの子達と一緒に居たかった。
でもー
ママがそっちに行くまで待っててね。
まだこっちでやることがあるの。
公子はやっと気持ちを切り替えて、生きている子供たちを思った。
自分を心配してくれて、手紙や折り紙のお守りをくれたー
早く会いたい、公子は小さく呟くと、今度は安らかな気持ちで涙を流した。
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