水曜日の「記憶」
老婆は、暇を持て余していた。
一年前に何十年も連れ添って来た夫が他界し半年前に息子が過労で急死し、色鮮やかだった世界は白黒のつまらないそれと化した。
特に何もやることがないので、老婆は、夫の生前、よく一緒に歩いた散歩道を一人で歩くようになった。
ある日、老婆は、それまで見たことのない店を見つけた。
水色の可愛らしい外装に、カフェのような看板。しかしそこには「夢売り」と書かれている。
若い人が入るような店は敷居が高いが、何となく興味を引かれる。
カランカランと扉を鳴らして、老婆は店へと入った。
「いらっしゃいませ」
老婆が中に入ると、青年が言った。
中も人も外と同じようにまるでカフェである。しかし、アンティークを用いているからか落ち着いた店内は、フランチャイズの、若者が好みそうなそれとは一味違って見えた。
好きなところにお掛けください、という青年の言葉に、さんさんと日の当たる角の席に座る。一番暖かそうだった。
「このお店は、本当に夢を売ってくれるの?」
座って、息を整えると老婆は尋ねた。この歳になると歩くだけで体力は削られてしまう。
青年はうなずいた。
「夢を見ることはできますが、そのために僕がお出しする飲み物を飲んでもらいます。それでもよろしければ」
老婆は言った。もちろんよ。
「どんな夢を、ご所望ですか」
「一年前に死んだ夫に会いたいの。たとえ夢の中で、でも」
青年はわかりました、と言って、戸棚から茶葉を出した。
「この葉は、静岡県で採れた特注の茶葉です。独特の香りとともに、味をお楽しみください」
すでにお茶は入れてあったらしい。お盆に乗せたそれを老婆のもとに運んでくる。
「どうぞ」
差し出されたお茶に、吸い寄せられるようにして老婆は口をつけた。
お茶の香りを鼻の奥で嗅いだ瞬間、老婆は眠りに落ちた。
キラキラとおひさまの光が青い桜の葉を照らして輝いている。
老婆は、老人とともに家の近くの公園で、日向ぼっこをしていた。
「桜の花も、散ってしまったわね」
老人は声を立てて笑った。
「ときが経つのは速い。昨日まで働いていたと思ったら、今はこんなところでのんびり和菓子を食べていたりする。明日には死んでいるかもしれない。あと何回、この桜の花も見れることやら」
やめてよ縁起でもない、と老婆は顔をしかめたけれど、老人は笑っただけだった。
そういえば、この後直ぐだった。老人が他界したのは。
思えば、夫は死期を悟っていたのかもしれない。
あの頃は急に、老人が一人で行っていた散歩を、老婆を誘って行くようになった頃だった。
若い頃仕事仕事で、家事育児の一切を私に任せて寂しい思いをさせた償いを、したかったのかもしれない。そう、老婆は思った。
老婆の目から涙が溢れるのを、青年は黙って見ていた。
やがてゆっくりと老婆が起き上がると、青年は言った。
「…夢は、いかがでしたか」
老婆は微笑んだ。
「最高だったわ。あの人と過ごした時間をもう一度思い出せたのは。最近物忘れが激しくてね。きっと私は、そのうち夫のことも、夫との思い出も忘れてしまう。その前に、もう一度会えて良かった」
そう言いながら、老婆の瞳から更に涙が溢れる。
青年は、目をそらして言った。
「お会計は、三百五十円です」
老婆はピッタリ三百五十円払うと、青年に訊いた。
「あなたには感謝しているけれど、どうやってあの夢を見せてくれたの?不思議でしかたないわ」
青年は人差し指を口にあてて微笑んだ。
「それは、企業秘密です」
老婆も笑った。
「そう。そうね、この世は不思議なことで溢れている。全部を知らないほうが、面白いかもしれないわね」
老婆は、ありがとうと言って、満足そうにカランカランと扉を鳴らし、眩い光の中へと歩いていった。
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