月曜日の「思い出」
男が勤める会社は、ブラック企業であった。
長時間労働は当たり前、家は寝に帰るだけの場所と化し、三年前に生まれた娘の顔もろくに見れない日々ばかりが続く。
しかし就職難なこの時代、三十路を過ぎた男には、転職の希望は持てなかった。机にかじりついてでもこの仕事をなくすわけにはいかない。娘も妻も養っていかねばならないのだ。
男はふぅ、と溜め息をついた。もうすぐ十二時である。今月はもう三週間連続で働いている。こうなってくると、空腹なのか寝不足なのか分からず、前後不覚に陥ることも少なくない。今日も昼食を食べる暇はなさそうだった。しかし、食べるものも食べなければ身体が持たない。残業はいつものことだ。上司に怒鳴られることは目に見えていたが、せめて昼食くらいは取ろうと、男はパソコンの電源を切った。
男の会社は海の近くにあった。オーシャンビューというとカッコだけはいいが、潮風に吹かれて建物は老朽化が進むし、夏が近づくこの時期は蒸し暑くてたまらない。
いつもの牛丼屋に行こうと道を歩いていると、ふと、ある水色のこじんまりとした店が目に入った。
男は首をかしげた。こんな店、今まであっただろうか。
実際、この道は何度も歩いているけれどこの店を見たのは初めてだった。新しくできたのかもしれない。
何となく興味が湧く。
「夢売り」などと言う洒落た名前は、ただの店名だろうか。それとも、本当に夢を売ってくれるのだろうか。
昼食を取りに出たことなどすっかり忘れて、男はカランカランとベルを鳴らして扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
男が中に入ると、一人の青年がコーヒーを挽きながら男に視線を向けて言った。
男は少々がっかりしていった。
「ここは、やっぱりただのカフェなんですか」
青年は首を降った。
「いいえ。ここは、夢を売るところです。
まぁ、ある意味カフェですね。メニューにあるのは夢ですが」
男の心臓は高鳴りだした。
「夢って、あの寝ているときに見る夢のことですか」
「はい」
「どんな夢でも、見れるんですか」
「はい」
「あの…代金は幾らくらいなんでしょうか」
青年は苦笑した。
「心配するのは、お金のことなんですね。
夢を見るときに、私が用意する飲み物を飲んでもらいます。お代はその飲み物くらいです。高くて千円もかかりません」
男は安堵の笑みをもらした。
「じゃあ、頂けますか。一つ」
「どんな夢をご所望で?」
「妻と…娘と過ごした日々を」
男は目を遠くへとやった。もうニ年近く前の話だ。あの頃はまだ、今より少しは家族と過ごす時間があった。
青年はさっきまで挽いていたコーヒーを、ゆっくり時間をかけてカップに注いだ。
店の中にコーヒーのいい香りが広がる。
男は香りに惹かれて、カウンター席に引き寄せられるように座った。
しばらくして、青年は、コト、と静かに男の前にコーヒーの入ったカップをおいた。
黒い闇が延々と広がっている。
「ブラックがおすすめですが、ご自由に、砂糖とミルクをお使いください」
まろやかな味を飲む気にはなれなかった。男はそのままのコーヒーを口に運んだ。
ゴクリ、と飲み込んだ瞬間、鼻の奥をコーヒーの香りが優しくくすぐり、男は眠りに落ちた。
キャハキャハと、娘の
海咲はまだハイハイを始めたばかりで、動けるのが嬉しいらしく、あっちこっちに行ってしまうから、妻の咲良がとても手を焼いていた。
男がソファで新聞を読んでいると、海咲は小さな体でよいしょよいしょと頑張って男の膝によじ登ってくる。そして、男の顔を見てキャッキャと笑うのだ。
愛おしさが募った。
男の頬を引っ張って遊ぶ海咲を、
「ダメよ、海咲。お父さん、疲れてるんだから」
男は、はっはっと笑った。
「大丈夫だよ。むしろ疲れが吹き飛ぶ。どうせ女の子は、思春期になったら嫌でも父親を嫌うだろう?今のうちだけだ、こうして慕ってくれるのは。なら、思う存分遊んでやろうと思ってね」
まぁ、と言いながらも咲良の顔には笑顔が浮かんだ。
「それよりどうする?今日は食パン焼く?それともそのまま食べる?」
「焼こうかな。君は?」
「私も焼くわ」
じゃあ僕が焼く、と言って海咲をどかし、トースターを開く。
穏やかな休日の朝だった。
カウンターに突っ伏した腕に、男の涙が伝う。
青年はそれを、黙って見ていた。
しばらくして男が起き上がる。
「…夢は、いかがでしたか」
男は涙を拭った。
「とても良かったよ。幸せな日々を思い出せた」
今はもう、自分にあんな朝は訪れない。休日も仕事だし、たまの休みにも寝てばかりだ。
「そうですか。楽しんでいただけて、なによりです」
青年はつぶやくように言った。
男は微笑んで立ち上がった。
「お代は、幾らかな」
「コーヒー一杯で、三百五十円になります」
男はきっちり払うと、扉に手をかけた。
出ていく前に、青年を振り返って尋ねる。
「そういえば、君は一体何者なんだい?見させてほしい夢を見せてくれるなんて…」
青年は微笑んで、人差し指を唇にあてた。
「それは、企業秘密です」
男はふふっと笑った。そして、そうか、と呟いた。
不思議は、不思議のままで、いいのかもしれない。
今度こそ、男は、カランカランと扉を鳴らして、扉の向こうの、眩しい光の中へと歩いていった。
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