第一部 Ⅲ:怪物

 葉ずえがやさしく揺れている。あとは空しか見えない。横を見やると、背の低い木の根元の向こうには明るい野原が開けている。少し先で、アリス3号が、横たわっている男の子の鼻先をつまんだり耳たぶを引っ張ったりして遊んでいた。

 信じられない。生きてるぞ。

 体を起し、手足を伸ばしてみる。どこにも痛みはない。かすり傷ひとつ負わなかったらしい。握り込んだこぶしの中に、風呂敷の残がいが何かの証拠のように残っていた。

「アニキ」

 こちらに気づいたアリス3号が、うれしそうにかけ寄って来た。

「タスカッタ」

 銀河は呆れかえって怒る気もしない。

「一体、どんな奇跡が起きたんだ?」

「キテ」

 手を引いてどこかへ連れて行こうとする。銀河はあわてて振り払った。

「先に行け、ついて行くから」

 少し行くと、野原の端がちょっとした土手になっていて、すぐ向うに、ついさきほどまでは崖ふちからはるか眼下に見降ろしていたあの大河が横たわっていた。さっき上から見ていなければ海としか思えなかっただろう。向こう岸のかわりに物音ひとつない水平線だけがただ続いている。あたりの様子から、ここはあの崖の対岸らしい。

 アリス3号は河原に下りて淵のおもてに手をさし入れ、何かをつかみ取りでもするかのような仕草をして戻って来た。三本爪が、何だかもやもやと形のない物をはさんでいる。

「ミテ」

 得意気に示して言う。

「アタラシイブッシツダ。コノカワハコレデデキテイルノ」

 それは、気体とも液体とも固体ともつかない何ともつかみどころのないしろもので、半透明の銀色をしており、光が当ると内部に宝石色の小さな影がチロチロと燃え立っていた。一見、かすんだ水のかたまりか雲に似ていて、さわってもほとんど手ごたえがないくせに、自分である程度の形をいい加減に保ってゆわゆわと爪先にたゆたっている。

 食べられるだろうか?銀河は空腹のあまり、小さくちぎって思わず口に含んでみる。とたんに何百万ボルトもの苦味の衝撃が全身を貫き危うく卒倒しそうになった。

「ドクダカラタベナイホウガイイヨ。イジメルトカミツクシ」

「かみつく?」

「ソレニ、セイチョウシテイクミタイ」

「生物なのか?」

「ドウカシラ?デモ、サッキ、シミュレーションシテミテワカッタノ。カソクドノエネルギーヲスイトッテソダッテイクミタイ。ショウゲキヲタベテシマウヨ」

 どうやらこの奇妙な半物質が、河面かわもに墜落してきた三人の激しい衝撃を跡形もなく吸収して、魔法のクッションになってくれたらしい。

「いいか」

 いのち拾いの理由が飲み込めた銀河は、姿勢を正すと、改めてアリス3号に説き含めはじめた。

「ぼくは生まれてから十四年この方、無理心中なんかされたいと思ったことなんか一度もなかったし、将来、もし誰かと心中するとしても、相手は断じてどこかのイカレ少女ロボットなんかじゃないからな。二度とぼくを道連れにしようとするんじゃないぞ」

「サ、カエシテキテアゲヨウ」

 アリス3号はくるっと背を向けて、もう一度土手を降りて行き、河原を横切ると岸にしゃがみ込んだ。腕を伸ばして、つかんでいたモヤモヤをおもてにひたす。すると、今の今までひとつのまとまりだったモヤモヤはたちまち全体のモヤモヤの中に溶け込み、河面かわもの一部になって見分けがつかなくなって行った。

 しばらく見守ったあと帰って来たアリス3号はそのままアニキのわきをわざと素通りして、男の子を寝かせていたさっきの陽だまりを確かめに行った。男の子はまだ横たわっている。

 両脚を投げ出したすねっロボットは、そのままとなりにひっくり返ってしまった。

「オナカガスイタァ。モウウゴケナイ。シニソウダァ」

「身投げのあとは行き倒れか。勝手にしろ。ぼくはごめんだ」

 銀河は、すでに言うことをきかなくなっていてもおかしくない体に無理やりむちうって最後の気力をふり絞った。

 きっとアリス3号や、思い通りにならない物事への憤慨だけで、かろうじて自分を支えているのだろう。

「どこかに道があるはずだ」

「ケイサンデハアッチノハズダヨ」

 アリス3号も仕方なく男の子を背負い直して立ち上がった。

「行くぞ」

 アリス3号の示した方角をしっかり見届けると、銀河は少しのためらいもなく正反対の向きに歩き出した。

 どこまでも続いて行く野原は色とりどりの小さな花々をちりばめて、こんな時でなかったらいつまでも寝そべっていたくなりそうなのどけさだ。銀河は歩きながら、いつしか意識が遠のきはじめていた。建物はどこかずっとはるかに高い山の中にある。崖から落ちてきた分だけ、今度はまた登って行かなければならない。とてもたどりつけないだろう。最後にもう一度だけ、もぎたてのイチジクやホクホク湯気をたてる七面鳥の丸焼きが食べたかった …

 何かに足をとられる。

「わ!」

 銀河は驚いて我に返った。

 出た!大怪獣だ!大きさは地球のマンモスの二倍くらい、前と後に頭がひとつずつある。一方の頭はティラノサウルスのような顔つきで額にはツノが突き出し、裂けた口から大きな牙たちがズラリとむきだしだ。もう片方はカワウソかオットセイに似ていて、とんがった鼻先にヒゲがあり、愛くるしい黒い目をしている。黒白のツートンカラーにそめ分けられた胴体には逆三角形の緑のヒレがあり、お腹の底にベージュ色の翼をたたんでいた。タコそっくりの八本脚には吸盤が並んでいる。そして背中から生え出たしなやかな尻尾がムチのように銀河の右足首にしっかりと巻きついていた。次の瞬間、恐ろしい力でぐんぐん引いて来る。銀河はひとたまりもなく引き倒されてズルズルたぐり寄せられて行った。

「マテ!」

 あわや餌食にならんかと思われしその時、猛然と突進してきたアリス3号が銀河の足首から尻尾をひきはがし、怪獣に組み付いて、ものすごい取っ組み合いの大乱闘が始まった。寸法では圧倒的に合いの子怪獣の方に分があったが、力ではアリス3号も負けてはいない。胴体を尻尾に巻き取られ、手足を吸盤脚で絞めあげられながらも、相手をなぎ倒して三本指でお腹の肉をつねりあげる。恐竜頭がグワッとうめきを上げ、カワウソ頭からキーッと悲鳴が立つ。二つの体は上になり下になってゴロゴロと転げまわり、あるいは組んずほぐれつしてはにらみ合って、しばらくは互角の戦いが続いて行った。

 どこにあんな力が残っていたのだろう。起き上がった銀河は、感心半分、呆れ半分でアリス3号の奮戦を見守っていたが、そのうちふと、相手の怪獣の動き方が何だか不自然なことに気が付いた。よく見ていると、襲いかかって来るのは片側の頭だけで、もう片方の頭はケンカをいやがって逃げ出したそうにしているようだ。それどころか、時々、自分のもう一つの頭をなだめて止めようとさえしていた。しかも、止めようとしているのは愛くるしい目をしたカワウソ頭ではない方だ。

 自分の頭に邪魔されるせいで、やがてカワウソ頭がだんだん不利になって来た。

 今だ。

 銀河は魚釣りジャケットのポケットから、折りたたんでいた形状記憶合金の宇宙帽をすばやく取り出して形を呼び戻し、伏せの姿勢でアリス3号とにらみ合っている相手のすきをついて忍び寄った背後から跳び上がると、ポカリと頭に喰らわせてみた。あまり効かなかったらしく、オットセイはゆっくり振り向いてこうべを回すとこちらを見定めたが、その刹那せつな、アリス3号の必殺のゲンコツが脳天にお見舞いされて、とうとう愛くるしい黒い目を回してしまった。

 一方、片割れの竜は悲しげにうなだれたまま、伸びてしまったカワウソ怪獣の具合をただひたすら気づかっている。

 あまりに哀れなその様子に、ふたりもちょっと気の毒になり、いっしょにカワウソ頭のたんこぶをさすってやることにした。

「キズハアサイゾ、イタチクン」

 銀河もおまじないにおでこにツバをつけてやる。すると、恐竜頭は申し訳なさそうに頭を垂れて、次の瞬間、驚いたことに吸盤脚をそっと差しのべ、銀河とアリス3号の体を自分の背中に乗せてしまった。今しがた、アリス3号が残して来た男の子も忘れずに拾い上げてふたりに返す。そして、乗客たちの腰が落ち着いたのを見はからうと、お腹にたたんでいたベージュ色の見事な二張りの翼を広げて、空の奥へ吸い込まれるように、あっという間に地面から離れて行った。

 一瞬後には、三人の体はもう天空高く浮んでいた。

 何という乗り心地の良さだろう。

 少しも動いている気配はない。それなのに、地上はもはやはるか眼の下へと遠ざかり、あの大河や切り立った峰々の全景が早くも足もとに開けてきた。翼は頼もしく風を受けて全くはばたくことがない。これでベージュの地にピンク色の水玉もようさえなかったら、さぞかし堂々と格好よく見栄えがしたことだろう。上昇気流は大河を一度渡るように渦を巻き、ついにさきほどの崖ふちが見えてきた。ふたりが身を投げたあの崖だ。つぎはぎ怪獣は、そこで穏やかに翼を傾け、気流を切っておおきく弧を描く。するとどうだろう。銀色に透き通ったホテルのような建物の姿が、もう手を伸ばせば届きそうな向うの山合いに、くっきりと迫って来ていたのだ。怪獣は壮大な輪を描いて建物の上空まで来ると、まっすぐ空中を下に沈んで行き、林のすき間に静かに降り立った。

 触手が伸びて来て三人を地面に降ろす。

 そのとたん、たまらなく甘いにおいが銀河たちの空っぽの胃袋につかみかかって来た。

「ブランデー・プディングダ!」

 感動のあまりアリス3号はうっとり立ち尽くす。

「シナモンコーヒーの香りもするぞ」

 銀河も胸がつまって泣きそうになった。

 においの来る方に向ってお洒落な並木道が招いている。すぐどこかに建物があるはずだ。

 だが、竜はそちらの方には向かわず、翼をたたんで横手の林の陰に入って行った。見ると大きな大きな犬小屋のようなものが木立ちの間にのぞいている。

「?」

「??」

 近づくと小屋の入り口に表札がかかっていた。

 宇宙文字で ポチの家 と読める。

 恐竜は犬小屋の奥にすっぽりと身を埋めて小山くらいのとぐろを巻いた。ザラザラした大きな舌で、いたわるように、気を失ったカワウソ頭を何度もやさしくなめ続ける。

「ゴメンネ」

 アリス3号は竜の頭に手を置いて謝った。

「サッキハシカタガナカッタノ」

 恐竜は背中の尻尾を軽く立て、いいさ、とでも言う感じで合図を返してみせた。

「ありがとう」

 銀河も吸盤脚の一本と握手する。

「おかげで助かったよ」

 吸盤が吸い付いてきて、手のひら全体をキッスで包み、最後に、高く差し上げた尻尾の房が、さ、早く行きなさい、と促した。

「行こう」

 銀河とアリス3号は、建物への小道を一目散に進んで行った。

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