賢者

 ソグディアナ候の謀反は罠だった。出陣したメナンドロスが王都アラクセスを留守にしている隙を狙い、エルダニア軍が西方から攻め込んできた。国宝を貢がされた復讐だった。アオルソイの騎兵もバクトラ北辺を荒らし、シルターンの戦象も南方諸侯の領土を踏み荒らした。そしてクシャは交易で蓄えた富でこれらの国々の兵站を支えた。

 結局、すべての敵を退けるまでに三年の歳月を要した。バクトラ八柱将のうち三人がこの戦いで戦死し、メナンドロスの妹はソグディアナ候とともに城壁から身を投げた。王都アラクセスは一時エルダニアに占領され、カドフィゼスが半年にわたり包囲しても落とせなかった。兵を退くまで断食すると宣言したロクサネの覚悟に打たれ、エルダニア王はようやく撤退を決めた。


「国元でなにか不穏なことでもあったのだろう。エルダニアもいつまでもこの地に兵は割けなかったのだ」


 アラクセスに帰還したメナンドロスは、瘦せ衰えたロクサネにそう言った。彼女の力で王都を取りもどせたことはわかっていても、武力より断食が功を奏したことが気に食わず、素直に功績を認める気になれなかった。


「ソグディアナにお前の別荘を作る。お前の働きに報いてやらねばならないからな。かの地で胡豆を味わいつつ、心ゆくまで休むがいい」

 

 それは本心ではなかった。断食で兵を退かせたロクサネは、ますます口うるさく覚者の教えを説いてくるようになるだろう。その前に、この僧のような女を遠ざけておきたかった。


「陛下の真心、ありがたくお受けいたします」


 ロクサネは両手を合わせ、拝むように一礼した。本気で感謝しているかわからないが、メナンドロスはこの女を遠ざけられればそれでいい。


(さて、次はどんな女を愛でてやるとするか)


 後宮の三千人の女たちの中にも、メナンドロスを完全に満足させてくれる者はいなかった。容姿か心か才能か、必ずいずれかに難がある。ロクサネはそのすべてが秀でていたが、覚者の教えにかぶれてから煙たくなった。

 今から後宮に入れる女を探すより、はじめから完璧な者を出現させればいい。メナンドロスは宝玉を手にとると、理想の女人の条件を並べたてた。





 ◇




 

 戦に倦み疲れたメナンドロスは、政務はアリアノスに一任し、歓楽に溺れる日々を送っていた。やがて胡旋舞を巧みに踊る踊り子に目をつけ、側室とした。バルシネというその踊り子は豊満な肢体を持ち、機知に富む会話を交わすことができ、覚者の話を持ち出してメナンドロスを煩わせることもなかった。メナンドロスはもうロクサネを思い出すこともなく、昼夜片時もバルシネを離すことはなかった。


 メナンドロスはバルシネのため副都に豪奢な離宮を建て、この地で日々酒宴に明け暮れた。臥所の中でバルシネは、王が贅を尽くすほどにバクトラの栄光が増すのです、とささやいた。蜜のように甘いその言葉に従い、バクトラの富を蕩尽するほどにメナンドロスの心の空虚は広がるばかりだった。その隙を埋めようとさらに彼は贅沢を重ねた。やがて国庫が尽きかけるころ、凶報がメナンドロスの耳に飛び込んできた。


「ロクサネがカドフィゼスとともにシルターンに亡命しただと?」


 カドフィゼスはマルドニオスを自害に追い込んだ功績で、ソグディアナの地を与えられていた。この地に別荘を与えられたロクサネといつの間に通じていたのか、この二人が手に手を取ってあの瘴癘しょうれいの地に逃げ込んでしまった。


「カドフィゼスも以前より、覚者の教えに傾倒していた気配がありました。おそらく、かの教えがあの二人を結びつけたものかと」

「ここまで侮辱されて黙っているわけにはいかぬ。シルターンを攻めるぞ、アリアノス」

「残念ながら、外征を行うには兵も金も足りません。そもそも、カドフィゼスなくして、どうしてシルターンの戦象と戦えましょうか」


 馬鹿な、と言いかけてメナンドロスは口をつぐんだ。バクトラの富を使い果たしたのは、ほかでもない自分自身なのだ。ここでアリアノスを責める資格などない。


(戦だけが、この空しさを埋めてくれるというのに)


 かつての寵姫と国の柱石を失い、再びメナンドロスの心に大きな穴が開いていた。だが、今度はこの穴を埋めるすべもない。窮したメナンドロスは、掌の中の宝玉を見つめた。


(この空しさを埋めるすべを知る者は、この世にいないか)


 メナンドロスは疲れ果てていた。バルシネの肉体に溺れても、心の穴は埋められまい。アリアノスは民の窮状を救うことはできても、渇いた人のを救えはしない。それならば、するべきことは一つだ。


「わが魂を救える賢者を王都へ呼べ」


 寝所へ戻ったメナンドロスは、宝玉にそう語りかけた。宝玉に載せた掌に、バルシネが掌を重ねてきた。バルシネはいつも、心の襞の裏の裏にまで寄り添うように、メナンドロスを慰めてくれる。そのバルシネの隣にいてすら、メナンドロスの心の空隙が埋まることはなかった。




 ◇




 シルターンからやってきたその男は、無礼にもアラクセスの陋巷にメナンドロスを呼びつけた。街頭で木鉢を掲げて立っているその男は蓬髪で襤褸をまとい、手足は痩せこけていたが、目には強い光があった。


「貴方が、覚者の再来と呼ばれるヴァースデーヴァか」


 本来ならすぐにでも首を刎ねてやりたかったが、賢者の知恵を得られなくなっては困る。メナンドロスはこの場は丁寧に話しかけた。


「覚者には遠く及びませんが、いかにも私がヴァースデーヴァです」


 ヴァースデーヴァはメナンドロスを見もせずに言うと、木鉢に入れられた葡萄や砂糖菓子を、その場でひもじそうな顔をしている子供にくれてやった。


「貴方の知恵を借りたい」

「知恵というほどのものは持ち合わせていませんが、答えられることならお答えしましょう」

「かつて余は四方の国々に貢物を届けさせた。完璧な側室も得た。だが、一向にこの心が満たされることはない。どうすればこの心の隙間を埋められるのか」

「その問いに答える前に、まずは私の問いにお答えください。王よ、貴方が貢物を得て、喜ぶのは誰ですか」

「それは……」


 ロクサネだ、と言おうとしたが言えなかった。覚者かぶれのあの女は、貢物などを喜ぶことはなかった。


「余だ。四方の国々が膝を屈すれば余は満足する」

「では、完璧な側室を得て喜ぶのは?」

「余に決まっているだろう」

「つまり王よ、貴方は貴方の喜びのためにのみ生きてきた、そうではありませんか」

「それの何が悪い。王はこの世の誰よりも尊い。誰よりも多くの喜びを得るべきであろう」

「ですが、最も多くの喜びを得たはずの貴方が、空しいと仰せられる。これは何故でしょうか」

「だからそれが知りたいといっているのだ」


 苛立たし気にメナンドロスが言うと、ヴァースデーヴァは微笑した。


「ロクサネ様は、なぜ貴方の側を去ったとお思いですか」


 メナンドロスは剣を鞘から抜くと、ヴァースデーヴァの首筋にあてがった。二人を取り巻く人並みの中から、小さな悲鳴があがる。


「お前もあの女のように、慈悲の心を示せなどというつもりか」

「もし貴方がロクサネ様の思いを汲んでいたら、今貴方の心は満たされていたでしょう」

「なぜ王たる者が人に気を遣わねばならないのだ」

「利他こそが執着を捨て、永遠の幸福を得られる道だからです。己一人の心を満たすなら、執着が増し、かえって人は不幸になります」

「ふん、そうであるなら、なぜハルナートはこのようなものを隠していた」


 メナンドロスは懐から宝玉を取りだすと、ヴァースデーヴァの目の前に突きつけた。その宝玉の中には、二つの星が瞬いていた。

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