メナンドロス王の問い

左安倍虎

秘宝

 その宝玉は、卵型の姿の中に深い闇をたたえていた。さらにその深奥には五つの星が瞬いていた。


(これが、ハルナートの秘宝か。思いのほか小さい)


 心の中でそうつぶやいたメナンドロスは、しばらくそのひんやりとした手触りを愉しんだ。歴代のバクトラ王が誰も踏み込めなかった聖都ハルナートの神殿の最奥部に侵入し、自ら数十人の僧兵を斬り捨ててようやく手に入れた宝玉だった。


「カドフィゼスよ、この宝玉の価値はいかほどか」

「おそらく、クシャの十年分の税収に匹敵するかと」

「それは宝玉としての価値のみを見れば、の話であろう。ヴァーリ経典の伝承が本当なら、あの小国すべてをさし出しても足りぬほどの価値があるはずだ」

「御意にございます」


 バクトラ八柱将筆頭のカドフィゼスは、謹厳な顔でうなづいた。もともと聖都の侵略に乗り気でなかったこの男も、いまメナンドロスの掌中にある宝玉の価値をよく知っている。


「残りの星があと五つということは、その数だけ願いを叶えられるというのだな?」

「おそらくその通りかと。これで、ロクサネ様もお喜びになりましょう」

「ふん、そうであればいいがな」


 ロクサネはメナンドロスの寵姫の名だ。賢く心優しい女だが、ハルナートの侵略に反対していた。ハルナートの僧どもと同じく覚者の教えを信じ、戦よりも布施をなさいませ、などと事あるごとに説いてきた。この宝玉の力を用い、天上の宮殿をこの世に再現したところで、あの女は満足しないだろう。


「利他の教えこそ覚者のめざしたところのはずだが、なぜこの聖都には黄金の像が並べられ、僧は紫衣をまとっている?結局、僧どもが己のことしか考えていないからではないのか」

「覚者の尊さを称えるため、聖都は煌びやかでなくてはならないとハルナートの大僧正は説いております」

「それこそ僧どもの都合でしかあるまい。利他を説くのなら、まず自らが蓄えた富をすべて吐き出せばよいのだ。このような宝をな」


 メナンドロスは宝玉をカドフィゼスの目の前に突きつけた。バクトラ随一の勇将はきまり悪そうに眼をそらした。率先して聖なる都を焼いたことに、後ろめたさを感じているらしい。


「僧どもが利他の心を忘れているから、余がハルナートの富を奪うことで、こ奴らに利他をなさしめたのだ。そもそも願いを叶える宝玉など、僧が抱えていて何になる?願望は執着から生まれるもの。覚者は執着を捨てよと説いていたのであろう」

「利他の行いを通じて執着を捨てられるのだと、覚者は説いておりました」

「なら、余がこうして富を持ち去れば、僧どもも覚者に近づけよう。執着する対象がなくなるのだからな」


 大笑すると、メナンドロスは辺りに転がっている僧兵の遺体をねめつけた。


「この宝玉にはもともと、八百八十八個の星が輝いていたという。僧どもは一体、今まで何を願っていた?ハルナートの永遠の繁栄でも願っていれば、この日が来ることもなかっただろうに。救いがたいほど愚かな奴らだ」


 覚者が没してから三百年が経ち、住処も持たず各地を遊行していた僧たちもやがて定住するようになった。覚者の教えが浸透し、富商からの布施が増えて寺院を建られるようになったからである。覚者の没した地に建てられたハルナート寺院には最も多くの富が集まり、門前町が栄え、僧兵団を擁して小国にも匹敵する力を誇っていた。

 バクトラの各地の富を吸い上げ、覚者の権威をまとうハルナートは、バクトラを強国に押し上げたいメナンドロスに目の敵にされた。北方の遊牧民アオルソイを屈服させ、東方のオアシス諸国を征服して交易の利を握ったメナンドロスは、最後の仕上げとしてハルナートの富を奪ったのだった。





 ◇





 王都アラクセスに帰還したメナンドロスは、城壁から眼下の街を見下ろしつつ、宝玉の力を何に用いるかを考えていた。アラクセスの中央を貫く街道を、馬車が檻を引きつつ歩くのが見える。檻の中には、鼻の長い巨大な生き物が身を横たえていた。


「あれが象だ。どんな生き物か知っているか」

「はい、温和で人の言うことをよく聞きますが、ひとたび怒れば原初の巨人も敵わないとか。そして、炎暑の地を好み、ハルナートより北で生きのびるのは難しいとも聞いております」


 ロクサネは物憂げな表情をつくった。聖都ハルナートを略奪し、その余勢を駆って南方のシルターンに侵入したメナンドロスは、一戦してこの国の戦象部隊を打ち破った。結果、シルターンは象を貢物としてバクトラに捧げることになった。


「あれはシルターンの王族の乗っていた象だ。あれを見てもまだ満足せぬか」

「わたくしのことを思うなら、せめて象のお世話は私にさせてください。象は本来、アラクセスの冷涼な気候にはなじみません」

 

 メナンドロスは眉を寄せたが、それ以上何も言わなかった。覚者の教えでは、人は生きとし生けるものすべてに慈しみの心を持たなくてはならない。覚者の教えに深く帰依しているロクサネなら、あの象を大切に扱うだろう。


「そうだ、すべての隣国があの象のような価値ある宝を貢いできたら、愉快とは思わぬか」

「わたくしはそんなことは望んでおりません。陛下、どうか他国の民にも慈悲の心をお示しください」

「お前の心は余と覚者、どちらのほうを向いている?」


 悲しげに目を伏せるロクサネを後に残し、メナンドロスは寝所へと足を向けた。もうこの女を抱くこともあるまい、と思いつつ、掌の中の宝玉を強く握りしめた。別の側室とともに、この宝玉に願いをかけるのもいいだろう。ロクサネのように、他国の民を顧みることのない女と。





 ◇





 一月が過ぎ、近隣諸国がその国で最も貴重な宝を貢いできた。エルダニアは金糸銀糸で織られた絨毯を、騎馬の民アオルソイは血の汗を流す駿馬を、オアシスの都市クシャは宝玉を散りばめた刀を運んできた。東方の大国シリカなどは、不老長寿の仙薬とその製法を記した書物百巻を持ち込んできた。

 メナンドロスは、玉座の前に平伏する各国の使者を満足げに眺めまわすと、掌の中の宝玉に目をむけた。そこには四つの星が瞬いていた。


「どうだアリアノス、これで我がバクトラは四方の国をすべて屈服させたといえよう。この国で最も輝かしい時代が訪れようとしているのだ」


 強気な台詞とは裏腹に、メナンドロスの心には隙間風が吹き込んでいた。どれほどの財宝を目の前に積みあげても、どこか空しい。


「ですが陛下、まだ油断は禁物です。各国の至宝を貢がせたのですから、王たちは皆我が国に不満を抱いておりましょう。これ以上は刺激せぬことが肝要かと」

 

 痩せぎすの宰相にたしなめられ、メナンドロスは渋面をつくった。


「諸国が皆我が国に膝を屈しているというのに、なぜこちらが気を使う必要がある?老いてものが見えなくなったか」

「くれぐれも、今は戦などなさいませぬよう」

「もうよい。下がれ」


 アリアノスに心中を見抜かれ、メナンドロスは苛立っていた。空虚な心を満たしてくれるのは、戦しかないと思っていたのだ。


(余とカドフィゼスの力があれば、誰もバクトラには抗し得ない)


 そう考えているうち、血相を変えたカドフィゼスが大広間に入ってきた。


「陛下、ソグディアナ候が背きました。サルナートの残党も謀反に加わっているようです」


 ソグディアナ候マルドニオスはメナンドロスの妹を娶っている。親族に裏切られたメナンドロスは愕然としたが、玉座から立ち上がると、


「マルドニオスの首を取った者にはソグディアナをすべて与える。妹の命には頓着するな」


 そう声を張った。また戦地に身を置けると思うと、心の穴がふさがったような気がした。

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