輪廻

「ほう、この目でそれを見る日が来るとは思いませんでした」


 ヴァースデーヴァは興味深げに黒光りする宝玉を見つめた。


「願いを叶える宝玉を、なぜ僧どもが後生大事に抱えている?こんなものがあれば、余計に執着が増すばかりではないのか」

「執着が増すかは、どう願いをかけるかによります。己の欲を満たすことを願えば執着が増し、他者の幸せを願えば執着が減ります。前者は悪のカルマを増やし、災いを招き寄せます。後者は善のカルマを増やし、心の平和と安寧を呼び込みます。その宝玉はこの仕組みを体得させるため、天が覚者に下されたものです」

「バクトラに四方の国が攻めこんできたり、ロクサネが亡命したこともカルマのせいだというのか?」

「いかにも。その宝玉を前にすれば、人は誰もが大きな願いをかけます。つまりそれだけ大きなカルマを背負い込むことになるのです。善であれ悪であれ、増やしたカルマの結果をその身で引き受けることで、人は因果の仕組みを理解できるのです」

「では、余が心の空隙を埋めるには、善業を積むしかないというのか」


 メナンドロスはがっくりと肩を落とした。今までこの宝玉を使って叶えた願望は、すべて不幸へとつながっていたのか。心を満たしたければ、覚者の教えに従い、他者のために生きなければならないのか。布施をその場で子供にくれてやるヴァースデーヴァは、衣一枚と木鉢しか持っていないのに、確かに幸福そうに見える。


「ヴァースデーヴァよ、余はこのバクトラを建て直したい。そのための知恵を授けてほしい」

「残念ながら私は、覚者の知恵を伝えることしかできません。私が知っているのは、心の平穏を得る方法だけです」

「では余はどうすればいいのだ。アリアノスはすでに年老いている。余は戦のことは知っていても、民を幸せにするすべなど知らぬ」

「その宝玉に尋ねればいいのではないですか」


 メナンドロスは目を見開いた。そうだ、この宝玉がふたたびバクトラを繁栄へと導いてくれるだろう。病床にあるアリアノスに代わり、この宝玉がよき助言者となってくれるに違いない。


「この国が繁栄を取りもどしたなら、再びこの地を訪れるがいい」


 メナンドロスが言うと、ヴァースデーヴァは無言で合掌し、頭を下げた。




 ◇




 メナンドロスが宝玉にバクトラを再建する方策を尋ねると、心の中にいくつかの案が浮かんだ。それらはいずれも、メナンドロスの頭では考えつかないものだった。

 メナンドロスはまず四方の国々からの貢物を売り払い、ひとまず国庫を満たした。その金で街道を整備し、関所を廃止し、税を軽くして諸外国の富商を呼び寄せた。結果、交易が盛んになりバクトラの富はかえって増えた。さらにメナンドロスは奴婢を解放し、シリカの書物を輸入して東方の医術を学び、貧民には無料で治療を施した。三十年の間兵を用いることもなく、近隣諸国との関係は良好で、バクトラは平和を謳歌した。バルシネとの間には男子が一人、女子が二人生まれ、全員が容姿と才能に恵まれた。長男のアリダイオスは成人すると国王代理を務め、後継者として申し分ない能力を発揮していた。


 バクトラは富み栄え、国中の者から賢王と称えられ、メナンドロスは誰よりも幸福である──はずだった。だが、それでも彼の心の空隙は埋まることがなかった。メナンドロスは年老いて病床にあったが、それが不幸の原因ではなかった。


(確かにバクトラは空前の繁栄のさなかにある。だが、余が一体何を為したというのか)


 メナンドロスは確かにバクトラを再建した。だが、あくまで宝玉の力を借りただけだ。賢王と称えられても、この国を建て直す知恵は、自分自身から出たのではない。この国を治めていたのは、余なのか、それともこの宝玉なのか?そう問いかける日々が続いた。名声が高まるほどに、自分は賢王の名に値するのかという疑問が深まった。自問自答を繰り返すうち、その問いに答えてくれそうな者が、ようやくアラクセスの王宮を訪れた。


「王よ、私は貴方に詫びなければなりません」


 メナンドロスの枕元で、ヴァースデーヴァが囁くように言った。


「何を詫びるというのだ」

「私は、不妄語の戒を破りました」

「不妄語?ああ、嘘のことか」


 遠い昔、ロクサネが不妄語の意味を教えてくれたことを思い出していた。


「貴方の心の隙間を塞ぐには、他者の幸せを願えばいいと申しました。ですが、宝玉の力で民を幸せにできたとしても、貴方自身の心は充たされないのです」

「善のカルマを積めば、心の平穏が得られるのではなかったのか」

「善行の果実は心の平穏ではありません。今世での繁栄という結果で訪れるのです。国中の誰もが、貴方をバクトラ史上もっとも偉大な王と称えているでしょう。ですが、貴方の善行が己の力で為したものでない以上、心の空隙は埋められないのです」

「そういえば、宝玉で我欲を満たしていた時も、我が心は充たされなかった」


 四方の国から貢物が届いた時も、バルシネを得たときも、どこか心は渇いていた。バクトラに攻め込んだ周辺国の軍と戦っていた時のほうがまだ、メナンドロスは生気に充ちていた。


「その宝玉が教えてくれるのは、因果の法則だけではありません。超越的な力で事を為すことの空しさもまた、体得させてくれるのです」

「そうと知っていて、なぜ余を罠にかけたのだ」

「バクトラの復興を、確実に為さねばならなかったからです」

「確かに、余一人の力では到底この国を蘇らせることはできなかった」


 メナンドロスは枕元の宝玉に手を伸ばした。この宝玉が、本来手にできなかったはずの栄光と、決して埋まることのない心の空隙とをもたらした。


「しかし、なぜバクトラの復興にこだわったのだ?貴方はシルターンの人間だろう」

「私の弟子が切に望んでいることでしたので」

「弟子?」


 ヴァースデーヴァが片手をあげると、黄色い僧衣をまとった男女が寝所に入ってきた。年老いてはいるが、忘れようのない二人だ。


「ロクサネ、カドフィゼス、お前達か」


 二人は無言で合掌し、頭を垂れた。


「王よ、貴方はこの二人が駆け落ちしたと思われているようですが、そうではありません。かつて貴方のハルナート侵略を止められなかったことを悔い、僧になったのです」

「死ぬ前にそれを聞けたのが、せめてもの慰めということか」


 メナンドロスは力なく笑った。


「ヴァースデーヴァよ、覚者は人は皆、輪廻を繰り返すと説いていたのだったな」

「善き行いをした者は梵天界へ、悪しき行いをした者は餓鬼界へ、功罪相半ばする者は人界へ生まれ変わると覚者は教えております」

「では、余はどうなるのだ。ハルナートを焼いた罪と、バクトラを復興した功とでは、いずれが大きい」

「さあ、そこまでは私にはわかりかねます」

「貴方はどうだ。余にバクトラの復興を為さしめた功と、余を騙した罪とでは、いずれが大きいのか」

「善行を為すための不妄語は方便として許される、と書かれた経典も存在します。ですが、これが覚者の教えそのものであるかは明らかではありません」

「貴方が覚者の再来か、それとも詐欺師なのか、後世の僧はさぞ頭を悩ませるのだろうな」

「確かなことは、私が覚者に遠く及ばないということだけです」


 三十年前もこの男が同じことを言っていたのを、メナンドロスは思い出していた。


「余はこれからどこへ行くのか。行く先は自分では決められない。だが……」


 メナンドロスは掌の中の宝玉を見つめた。もう残された星は一つしかない。


(願いが聞き届けられるかわからぬが、試してみる価値はあろう)


 宝玉を強く握りしめると、メナンドロスは最後の言葉を口にした。

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