アホウドリ
注意不足だと、指摘を受けた。
店主に叱られている彼は、そうだろうか?と首をひねっている。
お昼時、店が混雑していた。
注文が殺到して、ウエイターの手が回らなくなっていたのだが、厨房の彼は一心不乱に指示された料理を作り続けた。
結果、配送待ちの料理が厨房に溢れ、置き場のなくなった新しい料理を置くために、手前の皿を押した。
当然、一杯のテーブルに押し出された皿を支えるスペースなど無く、店内に陶器が割れる音が響いたのだ。
「ウエイターが運ばないのがいけないのでは?」
彼は悪びれること無く尋ねた。
「確かに、それもある。だがな、今日はウエイターは二人しかいない。
少し料理のペースを落とすとか、考えてくれないか。
それに、置き場がないからといって、先を見ずに皿を押すなんて馬鹿げてるだろ」
店主は今月の給与から皿の代金を引くと付け加え、大きくため息を吐いた。
少し離れたところで、ウエイターが心配そうに覗いている。
彼は厨房で誰よりも早く的確に料理を作る。
それは、才能と堂々と言える能力だ。
彼が一人いればかきいれ時の厨房も難なく乗りきることができる。
店の誰もが彼のスキルを評価していた。
けれども、料理以外の物への関心は人一倍薄く、今回のような失敗も数えきれないほどなのだ。
どうにも、彼は不注意で、料理をしている間は他の状況を把握できない。
まるで、スポットライトがあたる主人公以外は暗転しているように、彼の目にそれらは入り込まない。
何度注意をされても、どうにもなおらないのだ。
「君の仕事は確かに料理作ることだ。でも、それは、お客様に届ける料理だ。
ただひたすら、何も考えずに料理をしていれば良いというわけではないのだよ」
ぽんと肩を叩かれて、彼はじっと床を眺めていた。
店主が店の奥に入り、ウエイターも店の後片付けに戻る。
彼はしばらく間を開けて、清掃作業へと戻っていった。
小さなアパートの小さな部屋で、彼は唸っていた。
店主に叱られるのはこれが初めてではないのだが、一度や二度の事でもない。
料理は好きだが、その他付随する事柄をどうにも覚えることができない。
拙い文字で書いた注意事項を壁に貼っていたのだが、最早貼るスペースもない。
そもそも、貼ったところで改善された試しもない。
「できないものは、できないものだ。これは、自分でどうにかできるものではない」
犬が空を飛べないように、鳥が物をもって走れないように、彼には周りを見るということができないのだ。
「指をさして確認しても、料理をしている間に忘れてしまう。
忙しい時間は同僚を頼るのも難しい」
店主は彼の料理の腕を見込んで随分よくしてくれる。
失敗をすれば、その度に叱ってくれる。
何故叱られているのか分からないならば、分かるように教えてくれる。
それは、とてもありがたいことだと彼は解っている。
だから、店主の為にも改善はしたいと思うのだ。
「どうしたものか」
小さな部屋に、ポツリと溢した言葉は静かに消えた。
翌日、店に顔を出すと、店主がキッチンで何やらごそごそとテーブルの周りをうろうろしていた。
何事かと覗き込むと、お客に出す料理を並べるテーブルに均等な間隔でシールが貼られている。
「おお、丁度よかった。見てくれ。これなら君もわかりやすいだろ?」
元アナグマの店主は鼻の穴を膨らませて説明をした。
「このシールの所に皿を置くんだ。シールが少なくなっていたら料理を作る手を止める。そうだな、3つは空きを作って置けばいい」
店主は最後のシールをはり、満足そうにテーブルを眺めた。
「わざわざ、すみません」
彼は申し訳なさそうに溢した。
自分で解決策を見いださなければならないのに、店主に手間をかけさせてしまった。
それから、何とも言えない思いで泣きそうだった。
そんな彼の背を強く叩き、店主は笑う。
「いいか、君の料理の腕はうちの自慢なんだ。そんな君の為ならこのくらいどうってことない」
何度失敗をしても、何度間違えても、この店主はこうして笑うのだ。
「この国はみんな別の生き物なんだ。得意不得意があって当たり前だ。それを補えば良いだけだ」
そう言って、店主は事務室へと戻っていった。
彼は店主が整えたテーブルを見て、口元が緩んでいた。
ただただ、嬉しかった。
その日は何も問題を起こさずに済んだ。
注文通りの料理を作ってテーブルに並べる。
調理のスピードは相変わらず早くて、かきいれ時にはテーブルがいっぱいになった。
昨日までなら、無理にでもスペースを作って料理を作っていたが、今日は違う。
「シールが無いところには、置いてはいけない」
ただこのルールを守るだけで、皿を落とさずに済む。
シールが見えなくなってきたら、手を止める。
そうして、ウエイターが料理を運ぶのを待ち、いくつかシールが空いたらまた料理に取りかかる。
シールを確認する彼を見て、店主もニヤニヤと上機嫌だった。
「我ながら、素晴らしいアイディアだ!」
などと、従業員に自慢する程だ。
そんな店主が、彼は本当に大好きで、この人がいたからやっていけるのだと、心のそこから感謝をした。
料理を作る手にも力が入る。
何時もより鍋が軽い。
料理が楽しくて仕方がなかった。
問題というものは次から次へとやってくるもので、皿を落とさなくなった彼だが、従業員との関係は複雑だった。
元より注意不足である彼は、料理以外の事が全くできないと言っていい。
ウエイターが注文を取り、料理を運び片付けをしている間、彼は料理が混んでくるとたち呆けている。
他の料理人は片付けや準備をしているが、彼は立ち止まってテーブルを眺めている。
それが、従業員にとっては不満だった。
時間が空いているなら、他の事をすればいいのにと、陰口を叩かれることもある。
たち呆けている彼にわざわざぶつかりに行く料理人もいる。
けれども、彼は料理以外には無頓着で、周りが彼の事をどう思っているかなど考えるはずもなかった。
彼にあるのは料理への熱と、店主への感謝だけだった。
「アホウドリは、やはり頭が弱い」
そんなことを真っ向から言う従業員もいた。
その人は何でもテキパキとこなすウエイターで、愛想を振り撒くことも上手かった。
その人が彼に向かって怒った時、厨房は険悪な雰囲気に飲み込まれていた。
誰もが忙しく立ち止まることも許されない様な中で、彼だけが呆けているのが堪らなかったらしい。
彼はというと、何故怒られているのかがわからなかった。
彼の仕事は料理を作ることであって、他の従業員の機嫌をとることではない。
「何を怒っているのかわからない」
真顔でそう問いかけた彼に、堪忍袋の緒が切れたその人は、店中に響き渡る勢いで、手のひらを彼の頬にぶつけた。
「お前一人で店が回っているわけじゃない。人として生きるなら、協調性を養う努力をしろ」
真っ赤になって怒鳴ったその人は、ギリギリと歯を噛み締めて店を出ていった。
周りの従業員は胸を押さえてそのやり取りをみていたのだが、彼を気遣うような者はいなかった。
「あぁ、上がりの時間だったのか」
暢気にそんな言葉を発するものだから、ぶたれた彼に同情する者もなく、そそくさと帰り支度を始めた。
彼はというと、頬を擦りながら、何時も通りの片付けへと戻っていった。
ガスの点検が残っていた。
雰囲気が悪くなったこともあり、他の従業員はさっさと帰ってしまう。
今日は店主も外に出ていた。
彼はガスの元栓を一つ一つ閉じて、息を吐く。
頬が痛んだ。
「どうして怒らせてしまったのだろうか」
彼は彼の非が解らない。
人の感情を察する能力はきっと獣人の中でも低い方だ。
ふと、厨房を眺めていると、しまい忘れたまな板と包丁が目にはいる。
初めて食材を切った時、こんなにも見事な切り方があるのかと感動した。
断面はまっ平らで、引っ掛かりもなく簡単に根菜を真っ二つにできた。
爪や嘴では出来ないことだ。
火を通した食材の旨味を知れば、生物ばかりの生活には戻れない。
旨味というものを求めるのは、舌が人間に近くなったからなのだろうが、その感動は未だに忘れられない。
料理に心を奪われて、店主に拾われ、文句のない日々を過ごしているはずなのに、何がこんなにも胸を締め付けるのだろうか。
彼はじっと、包丁を見つめていた。
そこは不思議な木が並んでいた。
農場だろうか、一つ一つが柵で囲われ、丁寧な剪定が施されている。
木に実った果実は、日焼け防止か、鳥や虫から守るためか、白い紙袋で一つ一つ包まれている。
柵に書かれた文字は、彼には読めないものだった。
甘い薫りが鼻をくすぐる。
桃か、杏か、いや、無花果のような気もする。
木々は永遠と連なっているようで、見える景色にぎっしりと均等に並べられている。
風が吹く度に、その甘い薫りが混ざり合い、何とも言えない美味な匂いが立ち込める。
きっと、これらの果物でフルーツタルトを作ったら美味しいにちがいない。
彼は果実に手を伸ばす。
いったい、どんな果物からこのような芳醇な薫りが放たれているのか。
袋ごと、果実をもぎ、丁寧に袋を裂いた。
現れたのは、丸く艶のある果物だが、彼は目にしたことがなかった。
それは、オレンジとも赤とも言えない色をしていて、産毛のような細かい毛でおおわれている。
ゆっくり、その果実に爪を立てる。
プツリと爪が食い込めば、裂かれた皮の中からたっぷりの水分が溢れ出す。
雫となって滴る果汁は留まることを知らず、何処からこんなにも溢れてくるのかと思うほど、とぷとぷと滴り、地面を濡らした。
同時に、甘く熟れた果実の香りがぶわりと広がり、彼はごくりと喉をならす。
かぶり付きたい。
この果実に顔を埋めて、中の果肉を貪りたい。
そんな欲求で、胸がドクドクと高鳴っていた。
だがしかし、彼がその衝動に抗うのには訳がある。
目の前にあるのは未知の果物だ。
見たことも聞いたこともないものだ。
喉から手が出そうな程に欲を掻き乱す香りだが、それが毒でないという保証はない。
本能が、やめておけと警告をしている。
けれども、その薫りは、あまりにも魅力的で、砂漠の真ん中で見つけたオアシスのように、喉が求めているのだ。
震える手で、果実を口元へ持ってくる。
ほんの少し。一口だけでも、この実を頬張りたかった。
もう少しで、この甘い果汁を啜れるという、本当に僅か手前のことだった。
彼の手にあった果物が忽然と姿を消した。
いや、正確には奪われたのだ。
咄嗟に上空を見れば、1羽の鳥が彼の果実をしっかりと鷲掴みにして飛んでいく。
茶色い羽に斑模様のその鳥は、悠々と空を舞った後に、木にとまる。
そうして、果実を啄むのかと思えば、無表情のまま地面へと落とした。
果実は重力に負けて地面へと叩きつけられる。
熟れた果実は皮が弾け、どろどろとその果肉を果汁をだらりと滴らせた。
不快な音と共に溢れ出す甘い薫りは脳を麻痺させていくようだ。
呆然としていた彼の目は鳥ではなく、果実に釘付けだった。
どろどろと地面に吸い込まれていく果肉は、やがて水痕を残して消えていく。
すると、どうだろうか。
果肉のあった場所がぼんやりと光っている。
赤とも黄とも言えない淡い光が徐々に強まり、その中央からにょきりと芽が出た。
愛らしい双葉のシルエットとは対称的に、その葉の色は青紫で、毒々しいものだった。
ぞわりと彼の背を悪寒が走る。
その果実に種らしい種は見当たらなかった。
もしかしたら、肉眼では見えないくらいの小さなものだったのかもしれない。
けれど、すくなくとも、彼の目に種子は写らなかった。
もし、その実にかぶり付き、種子を飲み込んでいたら、考えは一瞬にして彼を恐怖へとおとしていく。
「旦那、危なかったね」
不意に声をかけられ、彼の肩がびくりと震えた。
恐る恐る振り向いた彼の額には大粒の汗がびっしりと張り付いている。
声をかけたのは、鮮やかな果物にも負けない程に派手な出で立ちの、やけに細い男だった。
夕日に似たオレンジ色の髪が、ふわりと揺れ、肩の飾りバネが誘うように靡いている。
「旦那、ここで物を口にしない方がいい。出口を見失ってしまう」
細い男はにこやかに説明を始めた。
口調は穏やかで、まるで彼を宥めるようにゆっくりと、丁寧に語る。
どうやら、ここの果物は皆、香りで生き物を惹き付け、木から離れ果肉が露になった場所で芽を出すらしい。
つまり、口にしていればその人の内臓で芽吹くのだと。
あんなにも芳しい香りが、一気に恐ろしいものになる。
けれども、その薫りは依然として彼の喉を刺激する。
「禁忌と呼ばれるものは、魅力的に映るものだ。旦那、旦那にとって、禁忌とはなんだろうか」
細い男に問われ、彼は首を捻る。
“禁忌”とはなんだろうか。
「自分達の存在が、そもそも禁忌なのではないのか?」
ふと、口にした言葉は、彼すらも驚かせた。
だというのに、その言葉はすっと馴染み、違和感を感じさせない。
細い男は目を細め、その棒のような腕を伸ばした。
斑の鳥が腕へと飛び移る。
鮮やかな木々、派手な衣装の隣で、地味な鳥は場違いのようでもあった。
「旦那にとって、獣人は禁忌かい?」
「本来、自分たちが生きるべき場所は、ここではない」
「そうかい。じゃぁ、何処だろう?」
「どこ?」
問われ、考える。
何処だろう?
「何処でも、いいんじゃないかな?」
鳥が鳴いた。
甲高いその声は、叫びのようにも嘆きのようにも聞こえる。
木々が溶け出す。
どろどろと、その形を崩し、風で薫りは吹き飛んでいく。
溶け出した木々の跡から、無数の光が沸き上がる。
淡い、色とりどりの光を纏うそれらは、小さな硝子の羽を羽ばたかせる羽虫だった。
鳥が、歓喜の声をあげて羽ばたいた。
ひしゃげた大きな口を目一杯に広げ、次々と羽虫を食らっていく。
ひどく、悲しい光景だった。
かつては自分も生きた魚を捕らえていたはずだ。
それが何故、こんなにも胸を締め付けるのだろうか。
いきる場所を選べた自分と、選べなかった羽虫を比べているのだろうか。
鳥が鳴く。
羽虫は鳥を避けながら宙へと舞う。
ゆらりゆらりと、食べられた仲間を気にすることなく、ただ天上を目指す。
「あぁ、まだ、選んだ場所で生きていたい」
言葉はどぷりと染み込んでいく。
目を閉じれば、浮遊感を感じた。
これは、夢であり、非現実の世界だ。
彼は静かに、笑みを溢した。
気づけば夕刻を告げる鐘が鳴っていた。
仕事を切り上げたはずの彼は、包丁を握ったままぼんやりと突っ立っていた。
その異様な光景に、周りの従業員は戸惑いながらも声をかける勇気がなかった。
その手が握っている包丁が振り回されるのではないかとドキドキしていたのだ。
彼は包丁の柄を確かめた。
それはこの店で頑張った証だと、店長が作ってくれた彼専用の包丁だ。
よく手に馴染み、切れ味はよく、この一振があればどんな料理でも作れた。
店長は、本当に良くしてくれる。
彼の為に手を尽くしてくれている。
彼は顔をあげた。
尽くしてくれているのは、店長だけだろうか?
優しい甘味に酔いしれていたが、それだけが彼を支えているわけではないはずだ。
「だ、大丈夫ですか?」
勇気を振り絞った従業員の一人が震える声で声を掛けてきた。
その顔をじっとみて、彼は深く頭を下げた。
ざわつく周りを気にも止めず、腰を折り曲げぐっと頭を垂れた。
「すみません。私は、あなた方より周りが見えない。わからないことも多い。」
ゆっくりと話し始めた彼の言葉を、皆が黙って聞いていた。
声を聞くのが初めての従業員もいた。
「料理に夢中になると、何も見えない。それでも、ここで働きたい。申し訳ないが、私に他の仕事を教えてくれないか」
思わぬ言葉に誰もが驚いた。
彼が自ら他の仕事を知ろうなど、これまで一度もなかったのだ。
再びざわつく中で、声を掛けた従業員は、丸くした目を細めて、笑った。
「はい、何でも、聞いてください」
そっと握られた手は、温かかった。
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