カワラヒワ


 熱にうなされて目を覚ました彼女は、ぼんやりと天井を眺めた。

 レンガ造りの家の、可愛らしい花柄の壁紙にシンプルな照明が飾られている。

 温くなったタオルを変えようと、重たい体に鞭を打ち、ベッドから這い出る。

 強力な磁石でもついているのではないかとおもう程に、体は動くことを拒否しているが、この熱のままに体温が上がれば良くない事は明白だった。

 咳き込みながらも、蛇口を捻り、水を出す。

 水がシンクにぶつかり流れ落ちていく音を聞き、目を瞑る。

 あぁ、大きな河が見たい。

 彼女の目蓋の裏に映るのは、広い川原にすすき畑が広がり、ハンノキや柳がゆらゆらと木陰を作る風景だ。

 中心を流れる水は澄んでいて、アユやオイカワが、鱗に光を浴びてキラキラと輝いている。

 近くにはイタチがモガニを狙ってじっと目を凝らしている。

 タオルがシンクに落ち、水を吸う。

 温いタオルが冷やされ、ぐっしょりと重たくなった。

 蛇口を捻り、水を止める。

 水滴がぴちゃんと跳ねて、静寂をつれてきた。

 絞らなければ、と思いつつ、彼女はじっとタオルから滲み出る水の流れを見つめていた。

 流してしまうのが、どうしようもなく勿体ないと思ってしまった。

 頭が重い。

 ぼやぼやと霞だす視界に、限界を感じ、何を思ったのか、たっぷりと水を含んだままのタオルをそのまま顔に押し当てた。

 ボタボタと水が顔から首を伝い、服を濡らす。

 ゾクゾクと悪寒が走り、身体中に鳥肌が立った。

 それでも、頭の熱が少し冷めたような気がして、彼女はタオルを離さなかった。

 ずるずると、体が床へ吸いつけられていく。

 ぺたりと座り込んだ彼女は、じっとタオルに顔を埋めたまま、動けなくなっていた。

 ぐずぐずと、鼻をすする音と、こぼれた雫が床に落ちる音だけが聞こえる。

 灯りすら付けられない薄暗い部屋で、たった独り、彼女は泣き続けた。



 ふと、目を覚ますと、見慣れた天井が映った。

 レンガ造りの、可愛い花柄の壁紙に、シンプルな照明が飾られている。

 頭のタオルはまだ冷たく、心地のよい温度になっていた。

 視線をずらしてみれば、ベッドに腰を掛け、前屈みで本を読む彼がいた。

 長い睫毛が時折動き、窓が空いているのか、風に合わせて柔らかい髪が揺れている。

「いつから、いたの?」

 彼女の問いかけに振り向いた彼は、本をパタリと閉じて、彼女を覗き込む。

「キッチンで倒れていたから、運んだんだよ。服も濡れていたから勝手に変えた。」

 怒らないでね?と、笑う彼は手の甲を彼女の首筋にそっと添えた。

 ひんやりとした手は、気持ちがいい。

「まだ熱いね。何か、食べれそう?」

 熱を出してから何も口にしていない。

 けれど、腹の虫が動くほど体は回復していないようだ。

「少しなら、食べれるかも」

 彼の好意を無下にする事もできず、答えた彼女をみて、彼は優しく笑う。

 彼女の頭を撫で、腰をあげる。

「ミルク粥を作るよ。お米は少な目。水分だけでも摂らなくちゃね」

 なにもかもお見通しというように、彼はキッチンに立つ。

 薬を飲むための水は飲んでも、その他に栄養のある物は飲んでいない。

 そもそも、身体を起こすことが億劫なのだから、口に物を運ぶことができなかった。

「私、どうやって生きてきたんだっけ?」

 ボソリと呟いた小さな声は、キッチンの彼には届いていない。

 まだ、小さな小鳥だったとき、これほどまでに脆弱だっただろうか。

 少しくらい傷んだ物を食べたって、平気だったのではないか。

 それがどうだ。

 風邪を拗らせて熱にうなされ、食べることすら放棄している。

 風邪の原因もよくわからない。

 冷たい雨に打たれたわけでもなければ、質の悪い物を食べたわけでもない。

 きっともっと些細なことだ。

「人間の身体って、随分ひ弱なのね」

 体は何十倍も大きく、たった一月で草木を苅り尽くしてしまうような生き物だというのに、どうしてこんなにも弱いのか。

「半端者だから?」

 鳥として生まれたはずだが、もう鳥ではない。

 かといって人間として溶け込めるかと問われれば首を横に振るしかない。

 だから、こうして、同じ境遇の者だけがくらす国にいるわけだ。

 半端者というのは妙に馴染み、けれども言い様のない不快感が募る。

「ここでは皆、同じように生きてきたんだから、はみ出はしないよ」

 甘い香りと共に彼が答えた。

 湯気が立つ器を机に置くと、優しく彼女の身体を抱き支え、体を起こしてくれた。

 ようやく腹の虫が起きたのか、ぐぅぅと唸るような音が聞こえた。

 彼女は顔を真っ赤にして、俯く。

「お腹が空くことは良いことだよ。良くなってる証拠だね」

 ミルク粥の器を手にし、彼もベッドへ腰かける。

 スプーンですくい、少し冷ます。

 部屋に甘いミルクの香りが広がった。

 人肌程に冷ました粥を、彼女の口元まで運ぶ。

 彼女は少し恥ずかしがりながらも、おずおずと口を開いた。

 久しぶりの食事はほんのり甘く、癖のないさっぱりとした粥だった。

 咀嚼せずとも飲み込める程に緩くふやけた米は、喉を通り胃へ落ちる。

 食道を通ると同時に、そこから温かな熱がじわりと広がっていく。

 一口を飲み込み、彼が二杯目を汲み取っている。

 スプーンが差し出される度に口をあける彼女は雛鳥のようだった。

 何倍目かの粥を冷ましていた彼は、思わず彼女へと目を向けた。

 ミルク粥を飲み込みながら、彼女の目からはポロポロと涙が溢れている。

 真っ直ぐ、空を眺めて、その黒く大きな目からポロポロと涙を溢している。

「熱かったかい?」

 彼が、心配そうに尋ねると、彼女は首を横に振る。

 それだけで、声を出さない彼女の背をゆっくり撫でる。

 まだ熱のある身体は火照っていて、寝間着越しにもその熱さが伝わってきた。

 ただただ涙を溢す彼女は、ぎゅっと、彼の腕を握りしめた。


 そこは一面の原っぱだった。

 青々と茂る草木が風に揺れている。

 空は真っ黒だというのに、天を目指す葉はキラキラと輝いていた。

 サワサワと葉が擦れる音が心地好く、青い香りは胸をくすぐった。

 耳をすませば、水の音が聞こえた。

 原っぱの向こうに雄大な河川がのんびりと水を運んでいる。

 淡く輝く水面は色とりどりに光を放ち、水の揺らぎが色を混ぜ合わせている。

 対岸には、町が見えた。

 レンガ造りの可愛らしい家々が、川岸に並び、人々が河で衣服を洗っている。

 一つの日常がそこにある。

 離れた場所で遊んでいた子供が川へ飛び込んだ。

 バチャンと大きな音を立てて、飛沫が高く上がる。

 どこからか、水鳥が飛び立った。

 雫が川へ戻る頃には、黒い空に群れをなしている。

 白い水鳥は、空によく映えた。

 思わず手を伸ばしていた。

 その手が、腕が目に映らない。

 確かに空へと手をあげている感覚があるのに、どう動かしても手を見ることができない。

 鳥の群れはあっという間に遠くへ飛び去っていく。

 待って欲しかった。

 連れていって欲しかったのかもしれない。

 声を出そうにも、何もでない。

 口を開けている感覚はあるが、音は何も出てこなかった。

 ふいに視線を落とし、恐ろしい事に気づく。

 水面に、彼女の姿は写っていなかった。

 草木は写し出されているのに、その中央に立っているはずの彼女の姿はない。

 対岸の人たちには、確かにある。

 動き回る子供達のそれも、はっきり見えた。

 困惑しながらも、彼女は水面へと進む。不思議な感覚だった。

 足を踏み出しているが、その足は見えないけれども重力は感じているし、筋肉が動いているのもわかる。

 葉が皮膚に触れる感覚も、風が通り抜けるのも感じている。

 ヒタリと、足が水に触れた。

 水面が揺れた。

 足をつけたであろう場所から円を画くように、波紋が広がった。

 それが無性に嬉しくて、泣きたくなった。

「お嬢さん、そこから先は危ないよ」

 声に振り向くと、原っぱの真ん中に府釣り合いな赤い衣装を纏った男が立っていた。

 四肢は葦のように細長く、肩の飾りバネはススキを桃色で染めたように鮮やかだった。

 オレンジ色の髪は夕日のようであったが、男は異質なものだった。

「川の向こうへ行きたいのかい?」

 男の問いに彼女は答えられなかった。

 わからなかったのだ。

 果たしてどちらへ行きたいのだろうか。

「あちら側は、外の世界なのだよ。お嬢さんの姿では立ち入れない」

 男が川岸に立ち、細い腕を前に出して、対岸の光景に指を指す。

「正しい姿でないと、立ち入れない」

 男の言葉に声を出そうとして、気がついた。

 今、彼女には口がない。

 それどころか、実態があるのかすら曖昧だ。

 だとすれば、なぜ、この男は“お嬢さん”と呼ぶのだろうか。

「安心なさい。お嬢さんが偽物というわけではない。お嬢さん自身が、本物を決めかねているのだよ」

 男の金色の目が細くなり、暗がりでよく光っている。

 本物を決めるも何も、本物とはただひとつなのではないだろうか。

 彼女は首をかしげていた。

 男には見えないかもしれないが、確かに身体は動いている。

「お嬢さん、お嬢さんが望むのはどちらだい?」

 ざわざわと、風が吹いた。

 その風のなかを切り裂くように、一羽の鳥が空を駆ける。

 焦げ茶色の斑の翼をいっぱいに羽ばたかせて川を超えた。

 対岸の人々は鳥に目をやるが、直ぐに元の行動に戻っていく。

 地に足をつけ、黙々とその生活を繰り返す。

 鳥に驚いた小鳥が一斉に飛び立った。

 猫が鳥を捕まえようと手を伸ばす。

 犬が威嚇をしてわんわんと吠えた。

 鳥は対岸の上空を旋回している。

 思わず、足を川へと進めたくなっていた。

 水面が揺れる。

 けれども、先へいくことは叶わない。

 男が

 彼女の腕を掴んだからだ。

 彼女目には、掴む仕草をしている男が写るだけで、彼女自身の腕はみえていない。

 けれども確かに、細い指が腕に絡まる感触があった。


 ゆったりと流れる川の水が、チカチカと輝いている。

 その光の中からふわふわと綿毛のようなものがわき出てきた。

 それらは風に揺られながらも空を目指し、淡い光を放ちながら上へ上へと上っていく。

 無数のそれらは、次から次へと湧き出て、あっという間に一面を覆いつくした。

 対岸が霞んでみえなくなる程に湧き出たそれを、引き裂くように鳥が飛ぶ。

 ひしゃげた嘴を目一杯に広げて、その光の粒を食らっていた。

 鳥が通るたびに、モヤに筋が入るように対岸が見えた。

 彼女の目に写るそこに、人の姿はない。

 ばくばくと鳥は粒を食べ続けた。

 遠くに、水鳥の群れが見えたような気がした。

 金色のすすきの原っぱが広がっている。

 建物はいつの間にかみえなくなっていた。

 足が動いた。

 男も掴んでいた腕を離している。

 バシャバシャと、水音を立てて、彼女は川へと進んでいた。

 光の粒は1つ1つが小さな虫だった。

 丸い光に薄く小さな羽根をもつ、小さな小さな虫だった。

 鳥が甲高い声をあげた。

 虫たちが一斉に空へ上がる速度をあげた。

 対岸が、ハッキリとみえた。

 そこに、彼が立っている。

 すすきの真ん中に一本のねむの木があり、その枝に彼が立っていた。

 優しく、囀ずる彼は、彼女を待っている。

 言葉がなくとも、その声は彼女を呼んでいた。

 彼女は人の姿を捨てた。

 小さな翼を羽ばたかせ、彼の元へと飛んだ。

 愛らしい声は、彼女にふさわしい、美しい音色だった。

 男の目にねむの木の枝で寄り添う二羽の小鳥が見えた。


 熱の引いた彼女は、彼に告白をした。

 正確には、彼の告白への返事をした。

「あなたと一緒に、本当の私でいたい」

 彼は優しく笑い、生涯を彼女と共に過ごすことを約束した。

「君を慰める腕がなくても、僕は君に寄り添うよ。

 君を励ます言葉がなくても、僕は君のために歌を歌うよ。

 だから、ずっと、僕と一緒にいてね」

 彼女は笑い、彼を抱き締めた。

 その数日後、二羽の小鳥は国を離れた。

 ススキの茂る川原で、愛を歌う小さな小鳥。

 姿は見えなくとも、その声は確かに生きていることを証明していた。

 

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