キジバト

 ざわざわと賑わう大通りを避けて、彼女は優雅に歩いていた。

 特に派手でもなく、かといって、地味でもないその出で立ちは、凛としていた。

 背筋を真っ直ぐに、ヒールの音を響かせて、澄ました表情で裏通りを歩く。

 入り組んだ石畳の坂道を上り、角を曲がる。

 野良猫が大きなあくびをして、小鳥が囀ずる。

 この国は、人と獣の姿をもつ獣人の国だ。

 そんな場所にも当たり前のように草木は生え、生き物が住んでいる。

 ちょっとした神様のイタズラで、変化をするか否かが決まる。

 彼女は人の姿をしているが、少し違えばただの鳩で生涯を終えていた。

 希少な運命を強いられたと言えばそれまでだが、ここでは誰もがそれを受け入れている。

 遊びに来た小鳥に微笑み、彼女は進む。

 かつての視線に別れを告げて、もう、5年が経とうとしていた。

 

 ずんずん進んだ先に、 赤い屋根の小さな家がある。

 それは、小さくとも、彼女の城であった。

 花の模様を施した可愛らしいドアを越えれば、木製の家具が並ぶ我が家だ。

 市場で買った果物を棚に並べ、買い物籠を定位置へ。

 綺麗に流していた髪を一括りにしたら、マッチを手に、暖炉へと向かう。

 箱をリンが滑り、頭に火をつけたマッチが、弧を画いて落ちていく。

 先に敷いていた紙に火が移り、次第に互い違いに組んだ薪へと燃え移る。

 火は苦手だった。

 パチパチと音を立てる火を一歩後ろで見つめながら、彼女は過去を思い出した。

 火を恐がる者は多い。

 自然界で滅多にお目にかかる事がない火というものは、災害の象徴のようなもので、恐れるべきものなのだ。

 その火を道具として使い、操る人間の心理がわからなかったが、なるほどと思ったのは冬の事だ。

 外気から守る羽毛を失った彼女は、その身に浸みる寒さを知った。

 刺すような霜焼けに、止まらない震えは、死を連想させるものだ。

 寒さに凍えているところを、この国の者に拾われ、初めて、火の有り難みを知る。

 こんなに暖かなものだとは、思わなかった。


 暖炉の火を使い、スープを温める。

 柔らかなミルクの香りが部屋に広がった。

 小さな椅子に腰かけて、スープを啜る。

 口から喉へ、そして胃をゆっくりと落ちていくそれは、冬の醍醐味だ。

「貴方と一緒に、飲みたかったなぁ」

 小さく溢した言葉に返事はない。

 彼女は一人で、家には誰もいない。

 静かな部屋に、火の音だけが聴こえていた。

 彼女の影がゆらゆらと揺れる。

 穏やかで、寂しい時間だった。

 火の灯りだけの部屋で、一人、彼女はうとうとと船をこぐ。

 やがてその意識は暗がりに溶け込むように、じんわりと夢の中へと落ちていく。

 火の音が、より一層大きく聞こえた。

 パチパチと木が弾ける音が、小さくもハッキリとその部屋に反響する。

 彼女の寝息が混ざる頃、温かなスープはほんのすこし、熱を失っていた。


 それは幸福な夢だった。

 彼女がまだ、ただの鳩だった時の夢だ。

 羽を飾る縁の模様が、しっかりと浮き出、大人として認められた頃だ。

 彼女の翼は、美しい並み模様を纏い、仲間内でも評判だった。

 凛と首を立て、歩く姿は誇りさえ感じられたものだ。

 土鳩とは異なる優雅な佇まいは、まったく別物のような気さえした。

 首を振り、一歩一歩を噛み締めるように脚を出す。

 そこへ、バサバサと音を立てて、もう1羽の鳩が舞い降りる。

 太く逞しいオス鳩は、彼女の番であった。

 クルクルと喉を鳴らし、愛情を表情する。

 寄り添い、互いの羽を繕い、共に餌をついばんだ。

 寒い夜は互いの体が溶け合うほどに密着し、体温を交換した。

 ふわふわとした羽毛が嘴の付け根を擦る度に、ふわりと彼の匂いを感じる。

 彼女にとって、至福の時間であった。

 永久に寄り添いあい、季節が巡れば子を宿すはずだった。


 暖炉を前に、眠りに落ちた彼女の頬を涙が伝う。

 幸せな夢は温かくも儚く、もう取り戻せはしない過去である。

 変化を受けた彼女は、鳩と人の姿を往き来しながら生活していた。

 彼は、人の姿になった彼女さえ、愛してくれた。

 いつも、共にいた。

 彼女が二つの足で歩けば、彼は肩にとまり、頬を寄せた。

 彼女が翼で羽ばたけば、彼は共に空へと舞い上がった。

 不思議な時間が過ぎていく。

 姿など関係なく、そこに確かな愛を感じていた。

 この運命すらも、より深い愛情を知るためのものだと思っていた。

 残酷な真実を知ることになるのは、ずっと先の事だった。

 もっと早く、その真実に辿り着いていれば、彼女は彼から離れただろう。

 そうして、彼には違う未来の幸福を送り、彼女はそれを見届けて満足できたはずだ。

 その真実が目に映らないほど、彼女は彼を愛しただけだった。


「同じ時間を、過ごしていたと、思っていたのにね」

 夢うつつの彼女が溢した現実は、あまりにも残酷だった。

 変化を受けてから、2年ほど経った頃、それは現れた。

 彼女の羽ばたきに、彼が付いてこられなくなった。

 すんなりと飛び立つ彼女だが、彼は何度も踏ん張り、漸く飛び立てる。

 どうしたのかと問うと、彼は何でもないと言うように喉を鳴らす。

 飛んでいる時間も、目に見えて短くなる。

 直ぐに木に止まってしまう彼を、何度急かした事だろうか。

 彼女には、何て事のない距離でも、彼は一度に飛ぶことが出来なくなった。

 それは、命の長さの違いだった。

 人の姿を手にした彼女と、鳩のままの彼では命の長さが違っていた。

 人間よりずっと早く歳を重ねる彼は、側にいながらも、老いていった。

 羽の艶も落ち、眠る時間も増えていく。

 弱っていく彼を守るため、彼女は人の姿でいることが多くなった。

 それが、距離を離す行為だということに、その時は気づけなかった。

 どうして彼ばかりが弱っていくのかわからなかった。

 彼を抱き寄せて何度泣いたかわからない。

 眠るばかりになっても、時折彼女の腕に愛しそうに嘴を寄せる彼は、静かに呼吸を止めた。

 体温が消えていく。

 温かかった羽毛も、色を失っていくようだった。

 泣いて、泣いて、泣き叫んで、声が枯れるほどに愛を叫んだ。


 結局、彼を忘れることが出来ず、彼女は今に至る。

 彼の風切り羽根を首から提げ、いつも共にいる。

 番と決別したのだから、他のオスを探しても良いものだが、彼女にはその気が起きなかった。

 彼でなくてはならなかった。

 これが人の姿と共に手にした感情であれば、残酷な罰である。

 忘れることができれば、他のオスで良いのなら、これ程に悲しみを覚えることはなかったはずだ。

「貴方の元に、いきたいなぁ」

 触れた羽根に温度はない。

 温かさも、その優しさも覚えているのに、そこにはなく、触れることは二度と出来ない現実が立ちはだかる。

 死後の世界があるのなら、そこでもう一度会えないだろうか。

 そんな考えが何度も巡っては馬鹿らしいと諦める。

 何度も諦めては、また、可能性を探してしまう。

 何度も、何度も、繰り返した。

 何度も、何度も、涙ばかりを流していた。

 ただ、会いたかった。

 愛しい彼に会いたかっただけだった。



 ポツリと雫が落ちた。

 桃色の柔らかな水面が揺れた。

 目の前に小さな池がある。

 ポツリ、ポツリと雫が落ちる。

 周囲には何もない。

 太陽が見当たらず、星の輝きもない。

 それなのに、池はハッキリと目に映っている。

 青色の小さな木々が池を囲み、キラキラと輝く藻が淵を彩っている。

 鮮やかな鯉が水底を優雅に泳いでいた。

 その鱗は虹色に光り、体を捻らせる度に色を変える。

 ゆらり、ゆらり、桃色の水面が動く。

 輪を重ねていく水紋が、ぶつかってはよりも大きくなり、岸辺にたどり着いて消えていく。

 幾重にも、様々な円を描いては、広がり消え、そしてまた生まれる。

 あまりの美しさに見とれていると、池の反対側に、一羽の鳥が羽を休めていた。

 彼女の目に飛び込んできた一羽の鳥は、確かにキジバトであった。

 想い焦がれ続けた番であった。

 足が勝手に動いていた。

 畔をなぞるように進む足はどんどんはやくなる。

 小さな池のはずだった。

 なのに、彼女は彼の元に行くことができない。

 走っても、走っても、彼との距離は縮まらない。

 「ねぇ、あなたでしょ?私がわかるでしょ?お願い、そこに行きたいの」

 口から出た叫びにも、彼はじっと見つめているだけだった。


 どれくらい走っただろう。

 一向に距離は近くならない。

 涙も止めどなく流れ、息はあがるばかりだ。

 それでも自分の意思で足は止められなかった。

 彼女を止めたのは、彼女自身ではない。

 こつこつと、硬い手だ。

 彼女の腕を掴み引き留めたのは、細く長い、骨だけて作られたような手だった。

 振り返った先に、怪しげな笑みを湛えた男が立っている。

 声を出そうとすると、すっと、男の人差し指が彼女の唇に触れた。

「お嬢さん、これ以上はいけないよ」

 骨が直接当たっているようだった。

 冷たく、無機質とさえ思わせる指が、ゆっくりと離れると、彼女の上がりきった息が静かに落ち着きを取り戻していく。

 池の対岸には、まだ彼が丸くなっていた。

 ふくふくと、羽を膨らませ、じっとしている。

「彼に…会いたかったの。また、一緒に、飛びたいの」

 細い手を振り払おうともがくが、男は一向に離してくれない。

 強く握られているわけではないはずなのに、びくともしなかった。

「お嬢さん、落ち着きなさいな。あれは、本当に、お嬢さんが望む者かい?」

 男の言葉に彼女の動きが止まる。

 そうだ。彼は確かに死んだのだ。

 目の前にいるはずがない。

 これが夢だとしても、そこにいるのは本物の彼ではない。

 ポロポロと、大粒の涙が止めどなく流れ、足元を揺らす。

「それでも…私は…」

 手を伸ばした先に、彼がいる。

 愛しい番がいる。

 夢でも偽物でも、恋い焦がれた彼がいる。

 しなやかな彼女の指が、彼に向いたその時、上空から一羽の鳥が急降下してきた。


 染みだらけのその鳥は、横長の歪な嘴をいっぱいに開いて飛んでいた。

 ポコポコと、池から羽虫が湧いてくる。

 それを大きな口で飲み込むと、また、空へと帰る。

 対岸でじっとしていた彼も、その染みだらけの鳥に触発されたかのように立ち上がると、波模様の美しい翼を拡げた。

 それは、一番楽しい時を過ごした、若い彼の姿だった。

 バサバサと音を立てて飛び立った彼が、染みだらけの鳥とともに舞い上がる。

 上下に大きく動く染みを囲うように、ぐるぐると円を画く。

 小さな池の上で飛び交っているというのに、彼女の目には遠くの出来事のようだった。

「あちらへ行くには、まだ早い。お嬢さん、おかえりなさい。」

 男の声が、耳を通って胸へ響いていく。

 鳥の声が聞こえた。

 甲高い鷹の声と、懐かしい鳩の声だ。

 温かく、優しい声は、鳴き声だったが確かに彼女の胸へと届いていた。

「その時が来るまでにたくさんの幸せを。そして、それを、再び会う時にたっぷりと、きかせておくれ」

 声が何度も何度も胸を打つ。

 痛いくらいに声が響く。

 静かに頷いた彼女は、ポロポロと落ちる涙が揺らした水面に、ゆっくりと身体を沈めていった。

 残ったのは美しい池と、騒がしく飛び交う二羽の鳥だけだった。


 暖炉の火が尽きそうになっていた。

 肌寒くなって、体を捩る。

 頬に柔らかい感触がある。

 温かく、心地よい、羽毛の感触だ。

「貴方はいつも、ここにいたのね」

 まるで、互いに暖をとるように、幻に寄り添う彼女は、幸せだった。

 確かに、そこに幸せを感じていた。

 夢から覚めれば、この温かさも消えるだろう。

 けれど、彼女はもう、寂しいと思うことはない。

 姿も声もなくとも、彼はずっと、そこにいるのだ。

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