カッコウ

 穏やかな春の朝だった。

 暖かい朝日を求めて扉を開けて、ぐぅっと伸びをした。

 小鳥の囀りと、そよ風の匂い、柔らかい春の感触が頬を過ぎ、朝露がキラキラと輝いていた。

 畑を見に行こうかと足を出したとき、ごつんと爪先が何かをつついた。

 おや?と視線を下げると、大きなバスケットが一つ。

 ゆっくりその蓋を開ける。

 白いナフキンが敷き詰められた中に、小さな手が見えた。

 慌てて取り上げたその子供は、まだ完全に変化を遂げていない赤子だった。

 皮膚には羽毛の跡が残り、大きな嘴が残ったままだった。

「これはこれは、ずいぶん小さなお客様だ」

 ごつごつしたたくましい腕で抱き上げると、その子はキャーキャーと、人とも鳥とも言えない声で泣き叫んだ。

 腕の中で懸命にもがく姿は、どんな赤子でも愛らしいものだ。

「さぁさぁ、あまり泣いては疲れてしまうよ」

 優しく揺すり、胸元へと寄せた小さな体は、か弱く、温かい。

 熊のような大きな体に、小さな命を抱え込み、ガラス細工の宝物を触るように小屋へと戻っていった。



その人はヘラジカだった。

 変化を遂げて群れを離れた彼はこの国へとやってきたが、どうにも街には馴染めず、外れの山小屋に一人静かに暮らしていた。

 大型の彼は、人の姿では大男で、化け物の様に見えるらしい。

 時折訪れる郵便以外、彼の話し相手は野生動物くらいしかいない。

 大きな体でひっそりと、ただ、静かに生活をしていた。

 ヘラジカとして野生に戻るつもりもなく、人間と交わることもなく、彼は彼の生活を選んだ。

 小さな客人は、彼にとってとても不思議なものであった。

 赤子の獣人というのは何を食べるのだろうかと思案し、泣きじゃくる子の口に、人肌に冷ました野菜のスープを染み込ませたハンカチを押し込んでみる。

 始めこそ嫌がった赤子だが、滴るスープに気がつくと、口をパクパク動かしてすすり始めた。

 こくこくと、喉を鳴らしてハンカチにかぶりつく様子を、微笑ましく思いながら、何度も何度もハンカチにスープを染み込ませた。

そのうちに、腹が膨れた赤子はむにゃむにゃと眠りへと落ちていく。

 羽の残りが散らばる小さな手で大男の歪な腕を握り、気持ち良さそうに寝息をたてた。

 静かに、起こさないように、ゆっくりと、バスタオルを何重に重ねただけの布団に赤子を寝かす。

 思ったより力強く握られた指を一つずつ丁寧に剥がし、バスタオルを握らせた。

 手のひらに乗せても余りがあるほど小さな命を前に、大男の心はふわふわと、柔らかくほぐされていった。


 月日が立つほどに、赤子は人の姿へと近くなる。

 不自然に取り付いていた嘴もすっかり消え、肌もするすると滑らかになった。

 時折、変化に失敗し、おかしな姿で走り回っているが、徐々にそれも覚えていくだろう。

 大男は庭で走り回る少年を眺めながら、椅子に腰かけ、本を読む。

 目の届く範囲で元気に飛び回る少年は、チラチラと大男を横目に、左へ右へ蝶々を追いかけていた。

「あんまり追い回したらかわいそうだろう」

「でもでも、ほら、掴まえてごらんって言ってるみたいなんだもん」

 大男と話す間も蝶々は少年の周りをふらふらヒラヒラ、華麗な羽を羽ばたかせている。

 それを掴まえようと手を伸ばすが、するりするりと手の隙間を抜けていく。

 くるくると手を伸ばしているうちに、少年の足がもつれパタリと地面に倒れ込んだ。

「これは、蝶の方が一枚上手だな」

「お父さん、どうしたら掴まえられるの?」

 少年が涙目になって訴えるものだから、大男はゆっくりと腰を上げる。

 そして、物置小屋からひょいと細身の網を取り出した。

 ぼろぼろの網ではあるが、虫取網としては上出来だろう。

「人は知恵を付けてきた。道具を使うことを覚えなさい」

 ひょいとふった網に吸い込まれるように蝶が収まると、少年は目を輝かせて駆け寄ってきた。

「すごい!すごい!」

 ぴょんぴょんと跳び跳ねながら網の中の蝶々を見つめる目は好奇心に満ちた純粋な輝きをもっている。

 網の口を上に向ければ、出口を見つけた蝶が一目散に空へと飛んでいく。

 キラキラと鱗粉を煌めかせ舞い上がる様はなんとも美しく、子供の興味を掻き立てるには充分であった。

「お父さん、僕も、僕も!」

 両腕をうんと伸ばす様子は餌をねだる雛のままだ。

 大男は網の持ち手を差し出す。

 大男には細すぎるが、少年にとっては手に余るほどの大きさだ。

 背丈よりも長い網をふらふらと持ち、大男と同じように網を振る。

 けれども、蝶は網を華麗に避け、ふわふわと森へと帰っていった。

 残念そうに森を眺める少年の頭を大きくごつごつした掌が撫でる。

「今度は自分で掴まえてみよう」

 大男の言葉に、満面の笑みで頷いた少年は、ぶんぶんと網をふった。


 大男の家は質素であったが、少年が来てから色が増えた。

 子供用の食器、家具、衣服、それから、何枚もの絵。

 少年にクレヨンを与えてから、たくさんの絵が壁に飾られるようになった。

 木々や草花、蝶に蜂、蛙や鳥、勿論少年と大男もだ。

 たくさんの絵を眺め、大男は胸がふわふわと、踊っているような気分になった。

 少年が“お父さん”と言って駆けてくる姿を思い浮かべては、むず痒くも温かな気持ちが込み上げる。

 小さなベッドで丸くなる少年に布団をかけ直し、静かに腰を下ろす。

 なんと小さく愛らしい生き物なのか。

 拾った子供であるが、大男は我が子のように少年を愛した。

 彩りのある生活は、少年が来なければ得られなかったものだ。

 慎ましく、密やかに暮らしていた頃が遠く感じるほど、少年との時間は濃密で、大切なものになっていた。

 いつか、少年が巣立つときが来るのだろうか。

 そんな事を考えると、もやもやと心の深くに押しやっていた薄暗い感情が声を上げる。

 ずっとこのまま、愛らしい少年と共に幸せな時間を過ごしたい。

 そんな欲望が溢れてくる。

 もごもごと寝返りをうつ少年に我を取り戻しては、同じ感情を巡る。

 静かな夜は、闇に誘うように、その感情を大きくするのだ。

 少年を起こさないように、そろそろと自分の寝床へと潜り込み、どろどろとした感情から逃げるように眠りについた。


 ひらひらと蝶が舞う。

 蛍光の鱗粉を溢しながら、一心不乱に飛び続けている。

 少年に見せたら喜ぶだろうか。

 大男はその大きな手で蝶を包み込む。

 すると、手に触れた蝶はパリンと音を立てて粉々に砕けてしまった。

 パラパラとこぼれおちる破片が宝石のように煌めきながら、どぼどぼと暗闇に飲み込まれていく。

 波紋が広がり、暗闇が揺らめく。

 呆然とする大男を他所に、波紋はどんどんと広がり、隣の波紋とぶつかっては、さらに大きな輪となって外へ外へと延びていく。

 そうして、波の端で、ふわりとステンドグラスのような羽を羽ばたかせ、一匹、二匹と蝶が舞う。

 淡く放つ光が真っ黒な波紋から生まれでる光景は、言葉には出来ない、美しい景色だった。

 次々と生まれる蝶は、パタパタと踊り始めるが、蝶同士がぶつかるとあっという間に砕け、また波紋へ戻る。

 波紋へ戻っては新しく生まれ、生まれては砕け、気づけば辺りは蝶に包まれていた。

 パリン、パリンと蝶が砕けていく。

 大男が蝶の群れに手を伸ばせば、触れた蝶が次々と弾ける。

 甲高い音が鳴り、どぼどぼと落ちては、また数を増やして舞い上がる。

 男の手に蝶だった破片が残る。

 薄い桃色の小さく薄いガラスは、チカチカと光っていた。


あまりに幻想的な光を追っていると、突然蝶達が慌ただしく散り始めた。

 それまで優雅に舞を見せてくれていたのに、あちらこちらへ散り散りになる。

 美しいガラスの羽の間を1羽の猛禽が横切った。

 そのひしゃげた嘴に一匹の蝶を咥えると、バリバリと豪快な音を立てて飲み込んでいく。

 そうして、また次の蝶へと金色の目玉をぎょろりと向けて、泥を刷り込んだような斑の翼を羽ばたかせる。

 一匹、また一匹とその口に飲み込まれ、口から溢れた破片が飛び散り沈んでは、また蝶が生まれ逃げ惑う。

「命の色とはこういうものをいうのかねぇ?旦那」

 突然の光景に目を奪われていると、大男の後方から声がした。

 ぼんやりと水面に立つその男は、大男が掴めば簡単に折れてしまいそうな細い身体だった。

 水面が揺れると男の肩に飾られた数枚の羽がふわふわと動く

「旦那、あの蝶は、破片が幼虫みたいなもんなんだ。水に落ちて蛹になったら、直ぐに羽化をする。

 育ててくれた水面をあっさりと捨てて空を目指すものだ」

 言われてみれば、水面に落ちた破片は丸く光り、水中を漂っている。

 そうして、ある程度泳いだらふわりと浮かんで蝶となる。

 その蝶を、鳥が食らっている。

「育ての親を捨てていくのか?」

 大男の低い声が、静かに響いた。

 細い男は、答えることなく鳥に笑みを向けている。

「育てただけでは、情は湧かないというのか!」

 大男の叫びと共に蝶は全て砕け、バラバラと水面におちていく。

 音を立てて水面に叩きつけられた破片は、黒い水を吸い上げて、滲み、侵され、沈んでいった。

 波紋が幾重にも広がるが、そこから新たな蝶が生まれることはなく、しんとした暗闇に、二人の男が立っているだけだった。

「旦那、親は見返りを求めるもんじゃないでしょう?」

 細い男の声が、鮮明に聞こえた。

 息を荒げていた男は、ぐっと唇を噛み締める。

 ごつごつとした大きな手が両目を覆う。

 それでも、ボタボタと大粒の雫が滴る。

 嗚咽を代わるように、水面はぽちゃぽちゃと音をたて、何度も何度も足元を揺らす。

「失いたくない。もう、孤独には戻れない。戻りたくはないんだ」

 大きな身体から次々と零れる涙は止まることを知らず、声を上げて泣き出した大男を枯らす勢いにも見えた。

「旦那」

 細い男が大男の肩を叩いた、

「旦那と坊っちゃんは、家族じゃないか。旦那は望んだって、孤独にはなれやしない」

 甲高い声がした。

 トプンと音を立てて、何が水面へと沈む。

 その波紋はじわじわと水面を侵食し、ついに大男の足場を崩した。

 ゆらゆらと波にのまれ、吐く息が気泡になって飛び出した。

 ずっと遠くに、愛しい少年の姿が見えたような気がした。


 雪に覆われた小屋の中で、大男は一人暖炉の前に座っていた。

 暖かな炎を見つめ、うとうとと、夢と現実の境を行き来する。

 たくさんの絵が飾られているが、それはもう、子供のお絵かきではなかった。

 美しい風景を、繊細な水彩で描いたそれらは写真と見間違うほど精巧で、緻密で、鮮やかだ。

 その中に、大男を描いたものが一枚だけあった。

 椅子に座り、優しく目を細め正面を向いている姿が、やはり細かく描かれている。

 その絵の端に、小さく文字が描かれていた。

 “敬愛する父”


有名な画家となった少年は、街へと出ていった。

 一枚の絵は、オークションに出してくれと何度も頼まれたが断り、父へと贈った。

 やがて、大男が眠りにつき、画家もその生涯を終えた後、その最高の一命は彼の傑作として、後世まで語り継がれる事となる。

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