失われた歌

有馬 礼

第1部 守護者の森篇

第1話 邂逅

 誰かが呼びかけている気がする。誰だろう。幻聴だろうか。

呼吸が嵐のように耳元で荒れ狂っている。

 狭い木の間をすり抜ける。飛び出した枝が目の際を掠める。

 追跡者は10人弱か。一人ひとりは大した実力の持ち主ではない。しかし、傷つき力尽きようとしている今、殺さずに彼らの戦意を喪失させることは不可能だ。こちらに害意がないことを説明する暇も与えられないだろう。

 この場は、なんとか逃げ切ることができれば。

 突然目の前が開けた。

 しまった。開けた場所に誘導されていたのか。

 彼は4本の脚を突っ張って急停止する。

 囲まれている。

 彼らは自分たちの縄張りを守ろうとしているに過ぎない。殺したくはない。しかし。

 長い舌をだらりとたらし、荒く息をつく。

 追跡者たちが手をあげる。よく見れば、男も女もいる。彼らの手に炎が宿る。

 輪郭のぼんやりした、下級の火の精霊だ。


 お願い、殺さないで!


(何だ!?)


 はっきりと聞こえた。しかし、空気を震わせる音ではない。なんだ、これは。

 追跡者たちは、巨大な狼の輪郭が一瞬ぶれるのを見た。

 次の瞬間、狼は男の姿に変わっている。

 長い髪の、痩せた背の高い男だ。狼と同じ灰色の鋭い眼をしている。

 脇腹から酷く出血している。深手のようだが、油断はできない。


「狼憑きめ…」


 狼憑きの末裔である男は、何も言わず強く拳を握った。

 リーダーが手を挙げた、その時。強い風が吹いた。

 両者の間に、赤と緑の風が割り込んできた。


(精霊だ…)


 それは、2体の精霊だった。

 1体は赤い金属の鎧で全身を覆っている。顔はバイザーで完全に隠れているが、その下に人間の顔があるとは思えなかった。ヘルメットや鎧の肩には、逆巻く炎の意匠がつけられている。火の精霊だ。体格からは男性と見える。

 もう1体も同様に全身を鎧で覆っている。こちらは緑だ。火の精霊と違い、マントをつけている。向こう側が透けて見える、薄い緑色の布だ。火の精霊よりは華奢な体格で、こちらは女性だろうか。風の精霊だ。

 精霊使いといえど、操れる精霊は追跡者たちのように、形のないものがほとんどだ。動物の姿を取る精霊を操る者に出会うこともあるが、まれである。人の形をした精霊を、2体同時に操れるとは。


「リコ…」


 リーダーが忌々しく呟く。


「ここは守護者の森だ。争いごとは遠慮してもらおう」


 火の精霊が、よく通る若い男の声で言った。


「なぜリコがこの狼憑きをかばう。精霊使いの守護者が」


「リコが何を考えているのか、俺たちは知らないな。だた、リコが悲しむのは俺たちも辛いんで、こうやって文字どおり飛んできたわけだ」


「族長に伝えて。彼はリコが預かると」


 風の精霊が女の声で言った。


「行くぞ…」


 リーダーは不満そうにほかの追跡者に指示し、彼らは去っていった。


「あんたがあいつらを皆殺しにする前でよかったよ。あいつら、一応身内だからよ」


 火の精霊が振り返った。


「あなた名前は?」


 風の精霊が尋ねる。


「…バルク」


 バルクは小さな声で何とか答えたが、そのまま膝をついた。


「ちょっ、やだ、めっちゃ血ぃ出てんじゃん」


「やっべ。風、塔に急げ。ファミリアに頼もう」


「わかった。でも、ファミリアって、人間診られるのかな?」


 火の精霊がバルクに肩を貸す。


「さあどうだろ。けど、ジイさんはわかんじゃね? 元人間だし。てか急げ。死んじまったら元も子もねえ」


「そうだった」


(なんだこれ…酷い…色々と…)


 バルクは薄れゆく意識の中、思った。

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