第4話 八月八日、花木碧理と白川美咲

「花木、花木碧理!」


 ぼんやりと、窓の向こうに見える青空を見ていた碧理に、しゃがれた男の声がかけられる。

 その声に我に返り、碧理は前を向いた。

 すると、来年の三月で定年を迎える担任の困ったような瞳に苦笑いを浮かべる。


「……大丈夫か? 相談ならいつでも聞くぞ。進路のこともあるし、この大切な時期に、お父さんが再婚だと、その……不安もあるだろ?」


 頭のてっぺんが寂しくなっている担任は、伺うように碧理を見た。

 どうやら、受験の追い込み時期である高三の夏休みに、父親が再婚した碧理の精神状態を心配しているらしい。


「大丈夫です。私も父の再婚には賛成ですから。それと、進路もそのままで問題ありません。失礼します」


 いつもと同じ態度のはずなのに、なぜか納得していなさそうな担任に軽く頭を下げると、冷房の効いた職員室から足早に出て行った。

 その途端、生温かい空気が碧理に纏わりつく。



 高校三年の夏、今から一週間前に、花木碧理の父である拓真は四十二歳で再婚した。


 予想していなかった、まさかの出来婚に、思春期まっさかりの碧理は嫌悪し、怒るより先に諦めた。

 自分一人が反対した所で何も変わらないとわかっていたから。

 義理の母となった女性は三十六歳。そして、三歳の息子もいる連れ子同士の再婚。


 血の繋がらない三歳の義弟と、八か月後に生まれる十八歳違う妹か弟の存在。それが諦めたはずの碧理の心を酷く掻き乱す。


 嫌で堪らなくなるほどに。


 相手の女性に対しても「おめでとう」と笑顔で接し、仲が良い義理の親子を演じた自分自身にも、碧理は吐き気がする。


 ――すべてにおいて限界だった。


 父である拓真は、碧理が四歳の時離婚した。それから十八になる今まで、男手一つで育ててくれた。

 それには、碧理も感謝している。


 朝から晩まで働き、家で一緒にご飯を食べた記憶はないに等しい。小学校、中学校と父方の祖父母の家でご飯を食べて夜まで過ごし、誰もいない真っ暗な家に帰る毎日。


 ほとんど、一人暮らしと変わらなかった。

 休日も仕事で、拓真がいつ義母と会っていたのか全く気が付かなかったほど。それほど、碧理と拓真との関係は気薄だった。


 初めて義母に会った時、義理の弟が驚くほど拓真に懐いていた。その時、碧理は知った。

 自分に内緒で、三人で過ごしていたのだと。

 知らなかったのは自分だけだと感じた碧理は、疎外感で泣きそうになった。だが、何も言えず、ただ笑って仲の良い三人を見ていることしか出来なかった。


 ――心が悲鳴を上げる。


 あと半年待っていてくれたらと碧理は何度も思った。

 半年経てば、高校を卒業して大学へと進学する。

 碧理は家から離れた大学を希望していた。合格すれば奨学金を借りて一人暮らしか、寮に入る予定で。


 それなのに、それまでの半年が地獄に思えて気が重い。

 静かだった家に他人が入り込み、自分の領域を侵食するように壊していくストレス。自分の家だったのに他人の家のように感じて、碧理は毎日が落ちつかなかった。


 明るい義母の声も、可愛い義理の弟も、今まで仕事と言って家に寄りつかなかったのに、再婚した途端、毎日のように帰って来る拓真にも。正直、どう接して良いのかわからない。


 いきなり変わった環境に、ストレスは溜まるばかりだ。


「暑いな……」


 職員室を出て碧理は自分の教室へと向かう。四階の階段を上った所で、開いている窓へと近寄り外を見た。


 そこは運動場で、野球部やサッカー部が元気いっぱいに動いている。まさに青春真っ只中。遠くにいる碧理にまで熱気が伝わってくるほど。

 だが、それに碧理は顔を顰める。

 何の悩みもなく青春を謳歌し、自分の好きなことが出来る環境にいる彼らが羨ましい。悩んで苦しんでいる自分とは大違いだと。


「ああ、見ていて暑苦しい」


 誰もいないのを良いことに悪態をつく。

 太陽が燦々と降り注ぐ中、今日は風も吹いていないらしい。冷房が付いていない廊下は酷く蒸し暑い。


 しかも、外から聞こえてくる蝉の声が、更に暑さを誘う。

 苛立っているのは暑さのせいか。それとも、違う場所になってしまった家に帰りたくないせいか。碧理はその答えを考えたくなかった。


「……どこかへ行きたいな」


 何気なく呟いた言葉は、誰にも聞かれることなく消えていった。

 溜め息を吐くと、誰もいない廊下を歩き、鞄が置いてある教室へと向かう。

 教室の中へと入ろうとすると、ふいに声が聞こえた。


 今は夏休みで、今日は四階で補習の予定はない。部活動なら、こんな四階まで来ないだろうと、碧理は訝し気に中の声に耳を傾ける。



「――絶対に失敗しないでよ。私が部屋の中にいるように過ごして」


 中にいるのはクラスメイトかと思ったが、その声に聞き覚えはなかった。

少しだけ開いているドアから、こっそり中を覗き見る。

 するとそこには、背を向けて話している女子の姿。他に人がいない所を見ると、どうやらスマホで通話中らしい。


 校則に煩いと言うのに、茶色に染めた長い髪はパーマをかけていて腰まである。背も高く、体型もスラリとしていて目を惹いた。

 だが、碧理はそれが誰だかわからなかった。


「大丈夫よ。紺碧の洞窟を三日で見つけて帰る。願いは絶対に叶うから!」


 『紺碧の洞窟』その言葉に、碧理は反応する。

 それは、噂になっている都市伝説。

 そこに行けば一つだけ願いが叶う。そう言われている奇跡の洞窟。

 碧理が考え込んでいると、いつの間にか通話を終えたらしい彼女が振り返った。


「うわっ!」


 のけぞるように驚き、まるで幽霊にでも会ったかのようなその態度に、碧理の方も驚いてしまう。


「……盗み聞き?」


 不愉快そうに眉間に皺を寄せる彼女は美人だった。

 後ろ姿だけでも目を惹いたが、正面から見ると、同じ高校生かと疑ってしまうほど大人びていた。


 最初に目がいくのは大きなぱっちりとした瞳にすっきりとした鼻筋。そして、口やそれぞれのパーツが絶妙に配置されている。

 同性である碧理が、思わず見惚れてしまうほどに。


「聞いてる? 花木碧理さん」

「えっ?」


 まさか彼女の口から自分のフルネームが出てくるとは思わず、碧理は間の抜けた顔を見せた。


「やっぱりわからないか。私、一応、同級生です。図書室で会ったこともあるのに残念。でも、話したことがないから仕方ないかな。白川美咲です」


 その名前で、碧理は思い出した。

 なぜなら白川美咲は不登校の有名人。噂によると、家から一歩も出ていない引きこもり状態だと言う。


 一年生の頃は普通に来ていたが、二年生の二学期から不登校になった。トラブルもなく、いじめを受けた訳でもなく、不登校になった理由は不明だと聞いた。

 唯一、家から出てくるのは、進級に必要なテストや補習の時だけ。全く授業を受けていないのに、なぜか美咲は学年トップクラスの秀才だった。


「あ、不登校の……」


 碧理は思わず声に出してしまい、そして、慌てて口を手で抑う。


「……ごめん」

「別に。本当のことだから良いわよ。じゃあ、私、もう行くから」


 口ではそう言っているが、腰に手をあて眉間に皺を寄せている美咲は、見るからに不機嫌だ。

 そのまま教室から出て行こうとする美咲の腕を、迷うことなく碧理はガシリと掴む。


「待って、白川さん。洞窟って、あの紺碧の洞窟へ行くの? ……場所がわかるなら私も一緒に連れて行ってくれない?」


「……は?」


 思いもよらなかった碧理の言葉に、美咲は目を丸くした。

だが、すぐにまた眉間に皺を寄せる。

 どうやらその仕草は美咲の癖のようだ。


「花木さんが何を言っているのかわからない。聞き間違えたんじゃない? 私は今日、補習で学校に来たの。そして、電話がかかってきたから空いていた教室に入っただけ。電話の相手は友達よ。紺碧の洞窟なんて知らない」


「連れて行ってくれないなら、先生や白川さんの両親に告げ口する。誰かにアリバイ工作お願いしていたでしょ? 話の内容から兄妹の誰かよね?」


「……何よ、それ」


 美咲は碧理に掴まれている手を振り払おうとするが、碧理がそれを許さない。


「先生達に知られたら行けなくなるよ。それでも良いの? 連れて行ってくれるなら黙っているけど」


 完全なる碧理の脅しに、美咲は怒ったように睨み付ける。


「平凡で害がないと思っていたのに、思ったよりも強引な性格みたいね。花木碧理さん」


 平凡、至って普通。それが周りから碧理に向けられた評価だ。

 碧理自身も、その通りだと思っているせいか訂正する気は一切ない。


「こんなことをするのは初めてだけど、私も行きたいの、紺碧の洞窟へ。必死なの」


「どうしてそんなに行きたいの? 理由次第じゃ考えるけど」


 美咲が諦めたように、ため息を吐く。

 どうやら碧理が遊びではなく本気だと伝わったらしい。


「一週間前に父が再婚したの。それで家にいづらくなってさ。新しい義母に義弟。それに生まれてくる妹か弟。私の居場所なんてないのよ。一人暮らしがしたいんだ」


 初めて会ったに等しい同級生に、家庭の事情は話したくなかった。だが、ほとんど学校に来ていない美咲になら良いかと、碧理は話を続ける。


「想像してみてよ。家の中がぎくしゃくするのが嫌で、にこにこ笑って気をつかっている私の姿。一週間でもう限界だよ」


「……いきなりそんな話しされても重いんだけど。真面目そうな花木さんが意外。あのさ、私が誰かに花木さんの家庭の事情話すとか思わないの? 噂回るよ?」


「白川さん、そんなことしないでしょ? 何より学校来ていないし。友達いるの?」


 碧理の指摘に、美咲はまた眉間に皺を寄せた。

 友達がいないのは図星らしい。


「わかったわよ。連れて行けば良いんでしょう? でも、本当に紺碧の洞窟へ行けるかわからないよ。噂だし。それに、行って帰って来るまでに最低三日はかかると思うけど家は大丈夫なの? 警察沙汰は困るよ」


 美咲の指摘に碧理は考え込む。


 確かに、いくら家にいたくないと言っても、三日間も家を空けると碧理に興味がない拓真も不審に思うかも知れない。

 三日間、誰かの家に泊まることにすれば良いと閃くが、良い相手が思いつかない。唯一、泊まっても問題ない友達は幼馴染だが、碧理の家の隣。

すぐに嘘がばれてしまう。


「お母さんの所に行っていることにしようかな」


 遠くに住んでいる実の母親を思い浮かべたが、美咲から鋭い指摘が入る。


「……それ、さらに家の中に軋轢生まれない? 義母のことが嫌で家出したようにしか思えないよ」

「……確かに」


 美咲の言葉に碧理は素直に頷いた。


「なら、白川さんの家に泊まるってことでどう?」

「……それしかないよね。花木さんて意外と友達少ないタイプ? 夏休みくらい誰かと遅くまで遊んだり泊まったりしないの?」


 美咲の言葉は、平凡な人間関係しか構築してこなかった碧理の心を抉った。 当たり障りのない学生生活、広く浅く生きてきた弊害が今、起こっている。


 頼れる友達がいない事実に気づいてしまった。

 碧理を見つめる美咲の視線は憐みを帯びている。


「それ以上言わないで。自分が一番良くわかっているから。それで、一緒に連れて行ってくれるんでしょ?」


「脅した癖に……。私の邪魔だけはしないでよ。じゃあ、十三時に駅の改札口に集合ね。三日分の着替えや雨具、懐中電灯。それと食料用意してきて」


「ありがとう。十三時ね。ところで、白川さんは誰にアリバイ工作頼んだの?」


 約束を取り付けた所で、碧理はやっとで美咲の腕を離した。


「私は兄と弟よ。両親は……父親は仕事で基本的に家にいないし、母親は専業主婦だけど習い事やボランティアで家にいないの。私や弟の世話は兄がしているようなものよ。だから問題ないわ。あ、これ私の電話番号。花木さんが増えたから家に帰って荷物増やして来るわ。また、後でね」


 そう言うと、慌ただしく美咲は教室から去って行く。


「変な気分。友達でもない白川さんと一緒に旅に出るなんて。願いが叶うと良いな。私、一人だけの静かな居場所を下さいって願うの……」

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