10

 どれぐらい経った頃だろうか。死んだはずにも関わらず、余は息苦しさで目が覚めた。水を掴むようにもがき、海面に顔を出すと、今度は凄まじい臭気に襲われた。鼻が文字通り曲がるかと思った。潮の匂いや魚介特有の生臭さなどではない。何かが腐っているような、明らかに「くさい」と言える類の臭いなのである。いつの間にか自分が糞尿の中へ迷い込んでしまったのかと思ったほどだ。

 水底に足が着いた。遠くに島らしき影が見えた。

海が浅くなるにつれ、臭気はきつさを増し、おまけに浮遊物が多くなる。大小様々な浮遊物が(そのうちの特に大きい方には歯を折った島で見た猿によく似た動物)が乗っていた。可哀そうに、浮遊物で遊んでいるうちに沖まで流されてしまったのだろう。あまりに不憫だったから、助けてやろうと手を差し伸べた。すると猿たちは、叫び声を上げながら次々海へ飛び込んでいった。

「なんだ、泳げるじゃないか」

 爪の先が猿たちの乗っていた白い浮遊物に当たった。その途端、浮遊物は横倒しとなり、真っ二つに割れ、水面に泡だけ残して海中へと消えていった。猿たちが更に何事か喚き出した。だが、それを薙ぎ払うかのように、余の頭上で轟音が鳴り響いた。

 耳が取れるかと思った。取れて困るほど立派な耳は持ち合わせていないが、いくら耳を塞いでも、その轟音は容赦無く余の頭の中に入り込んできた。

 音がすっかり通り過ぎてから、余は顔を上げた。轟音の過ぎ去った方を見やると、見たこともない形の鳥が、羽ばたきもせずに飛んでいく姿が確認できた。博識君曰く、あの鳥は〈ヒコーキ〉と呼ばれている鳥で、物凄い速さで飛ぶという。

 それにしても、ここはなんと落ち着かない海だろう。島の周りで余が浮かんでいたのとは大違いである。とても繋がっている風には思えない。海流に乗っているうちに、全く別の、汚い水溜りにでも迷い込んだようだ。そんなことを考えているうちに、海面はどんどん低くなり、今では腰上程度の位置まで下がっている。見上げれば、日はすっかり沈んでしまい、空は夜一色に染まっている。曇っているのか、星は一つも見えなかった。

 星の代わりにというべきか、闇の向こう、正面の陸地に、光の瞬きがあった。濃い闇の中で帯状に広がる無数の光は、夏の夜空に見上げる天の川を思わせた。

 陸が近付いてきた。水はもう足元の高さしかない。余は浜辺でそうするように、狭くゴミゴミした暗い海を水飛沫上げながら歩き、冷たい海から上がった。上がってみてわかったことは、足の踏み場もないほどに足元が散らかっているということだった。真四角の岩が、ひしめくように立ち並んでいる。こんな石ばかり並べた所でよく生活ができたものだ。

 少し触れただけで石は崩れる。足元では火の手が上がる。この様々な形をした虫を踏み潰す度に爆発が起きる。足の裏が熱くなる。見渡す限り、わけのわからぬ生き物ばかりである。

 ふと思う。まさか少女も、地面に並んだ虫や羽ばたかぬ鳥のように、奇怪な形をしているのだろうか。

――怪獣さん。

 少女の声がする。見知らぬ島に上陸し、不安に染まったあまり頭が作り出した空耳であろう。

――怪獣さん、来てくれたんですね。

 そんな言葉が彼女の口から出ることを、余は待っているのだろうか。

――わたしは近くにいます。今までより、ずっと近くに。

 余は立ち止まる。いつの間にか立ち込める黒煙の中、辺りを見回す。暗中模索。そんな言葉がぴたりと合うほど、周りの景色は闇と煙に包まれている。進むべき方向を思いあぐねていると、またも少女の声が耳元で響いた。

――こっちです。わたしの声がする方がわかりますか。

 夢などではない。たしかに彼女の声が聞こえる。余の姿をどこかで見ている少女が今まさに話し掛けてきているのだ。余は図らずも〈ニホン〉への上陸を果たしていた。

 声が強く感じられる方へ足を向ける。気持ちが逸る。不意に黒煙が切れた。途端、眼前で何かが爆ぜた。甲高い音が耳元を通り過ぎる。その音は、〈ヒコーキ〉のそれと同じ類のものだった。

 手の甲で目をこすり、首を振って意識を正して暗い空へ目を向けた。小さな〈ヒコーキ〉が何匹も、蜂のようなすばしっこさで飛び回っている。こちらへ向けて何かを飛ばしてきたかと思ったら、それが爆ぜて余の鱗を砕く。肉を抉る。どう好意的に捉えても、これは〈攻撃〉と言わざるを得ない。

 もどかしい。煩わしい。尻尾を振って叩き落とそうと試みるが、相手が早過ぎて当たりやしない。空振りする度に余の苛立ちは募っていく。

 一発、二発、三発。四発目が爆ぜた時、堪忍袋の緒が切れた。

「いい加減にしないか!」

 空に向かって怒鳴ると、声だけでなく、炎が出た。夜の闇すら焼き尽くさん勢いの蒼白い炎が、余の口を突いて出たのである。これには言葉を失った。燃えながら墜落していく〈ヒコーキ〉を尻目に、余はそのまま口を開けていた。

 今度は腹に殴られたような衝撃があった。地面に目をやると、角張った甲虫がこちらに角を向けていた。角の先には穴が開いており、そこから何かが余に向けて放たれているようだった。

 この島の連中は全力で余を追い払おうとしているらしい。しかしこちらとしても、そう簡単に応じるわけにはいかぬ。向こうが全力で邪魔をしてくるのなら、こちらも全力で少女に逢いに行く所存である。蜥蜴の恋路を邪魔する奴は、その身を焼かれることを覚悟して立ちはだからねばならない。

――そう、そのまま真っ直ぐ。

 甲虫を踏み潰し、余は進む。余の眼の前には道がある。余の歩いた後には黒煙ばかりが残る。

 赤い、骨組みだらけの木をなぎ倒した。四角い蛇を咥えた。体が火照り、自制が利かない。少女に逢えることへの喜びと、この島に漂う〈せわしなさ〉が余の気持ちを昂ぶらせていた。思考が、狂暴な方へ狂暴な方へと吸い寄せられていくようだった。

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