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決して溺れているわけではない。想像以上に海が荒れており、体の自由が利かぬだけだ。
右へ行こうとすれば左へ流され、左へ泳げば押し戻される。
息を継ごうと海面に顔出せば、塩辛い波が降り掛かる。鍛練により息が続くようになったとは言え、いつまでも潜ったままでいられるわけでもない。いい加減苦しくなり、首を目一杯伸ばして雨混じりの空気を吸うと、ふくらはぎにちぎれるような痛みが走った。
つったのである。
これまで経験したことのない痛みであった。山を転げ落ち、歯を打った時より痛かった。声にならない悲鳴を上げると、開いた口から潮水が流れ込んできた。
もう駄目かも知れぬ。頭の片隅に、そのような考えが泡のように浮かんで、はじけた。〈諦め〉というのは大変な肉体的影響力を持っているもので、一度〈駄目だ〉と思ってしまうと体が動かなくなる。水を掻く力が失せていき、余は波に呑み込まれる。暗く冷たい世界に引きずり込まれる。
意識が途絶えかけた時、耳の裏に啜り泣く声が聞こえてきた。言わずもがな、あの少女である。彼女だという根拠はない。だが、彼女でないという根拠もない。少なくとも余は、それが夢で聞き馴染んだ少女の声であると確信した。
彼女の啜り泣きは、余に様々な記憶を蘇らせた。
来る日も来る日も水泳に打ち込んだのは何のためであったか。今このまま溺れてしまえば、数多の日々が無駄となる。彼女への気持ちも海に沈む。
結局こうなるのか。沈みゆく意識の中で余は思う。所詮、俄か練習である。凪の海すら満足に泳げぬ余には、嵐の海など無謀であった。狂気の沙汰であった。今度こそ死ぬかもしれぬが、これで死んだらいい嗤い者にされるのだろう。「パパ、間抜けです」と息子が嗤い、「滅多なことをするからこうなるのだ」と親友が嗤う。ともすると、博識君にだって嗤われかねない。「海流の話より先に泳ぎ方を僕に訊くべきでしたね」などと言われた日には死んでも死にきれない。
余は息子に背中で語ったことを恥じた。この際正直に申すが、格好付けたのは事実である。自分に酔いしれ、雨の中へ消えて行く男の背中を意識した。
その結果、この様である。
恥ずかしい。このまま羞恥心に苛まれれば、溺れ死ぬ前に悶死する。
いや、溺死が先か。そろそろ頭がぼうっとしてきた。
気持ちだけでは何も為せぬ。何事も、それ相応の実力が必要になる。そんな当たり前のことを、余は今更ながら思い知った。
つまらぬ生涯であった。
蜥蜴として四つ足で這っていたなら、このようなことにはならなかったかもしれぬ。なまじ図体がでかくなり、二本足などで立つからこうなったのだ。分不相応という言葉は、まさに今の余のことではあるまいか。
色々考えていたらいよいよ意識が霞がかってきた。もうそろそろ時間のようである。
最期に一言、少女に謝りたい。彼女は、己の身一つ満足に救えぬ無様な余を信頼してくれた。大の蜥蜴として、誇りを重んじ生きる男として、頭を下げねばならぬ。
少女の沈んだ声音が耳に蘇る。
せめて、余の命と引き換えに彼女の父上が帰ってくればいいのだが。
薄れゆく意識の中でそんなことを考えながら、余は眠る思いで目を閉じた。
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