5
「博識君じゃないか」
言うなり、親友はくしゃみをした。余も鼻がむず痒くなり、一発かました。息子だけは平気な顔で肉を齧っている。
我々の頭上をくるくる回る彼は博識君といって、その名の通り大変博識な青年である。元々は芋虫で、きいきい言いながら地面を這いずり回っていたのであるが、ある日突然繭に包まったかと思うと、何日もしないうちに羽を持った成虫となって出てきた。そして開口一番「天上天下唯我独尊ツァラトゥストラはかく語りき」といったようなことを述べたてて我々を驚かせた。以来彼はその博識をもって我々に様々な知識を与えてくれるようになった。
以前親友が、「なぜそれほどの知識があるのか」と問うたというが、彼は「妖精が教えてくれるのです」と答えたそうだ。何でも彼の側には常に小さななりをした妖精がついているのだそうだが、あまりに小さくて我々では目視ができないらしい。そうすると博識君自身にも見えているのか疑問を抱かざるを得ない。あるいは彼のウィットに富んだジョークなのかもしれないが、真偽の程は定かではない。
「しばらく見ないと思っていたが、どこかへ行っていたのかね」くしゃみの合間を縫って余は訊ねた。
「ええ。見聞を広めるため、旅をしていました」
「知識は増えたかい?」親友が洟を啜りながら問う。
「はい。たんまりと」
「それはよかっ――」
言い切らぬうちに、親友は三回続けてくしゃみを放った。余もつられて一発出した。息子はやはり平気の平左である。
博識君はその博識ぶりを鼻に掛けることもなく、常に年長者である我々を敬う礼儀正しい好青年なのであるが、羽ばたく度に鱗粉を振り撒くといった欠点を持っている。これが無害な代物ならいいものの、鼻がむず痒くて仕方なくなるからいけない。だが、博識君自身は故意にやっているわけではないし、我々はくしゃみ以上に貴重な知識をもらっているわけだから、強いことは言えない。いつか彼が自分で気付き、改めてくれることを待つばかりなのである。
「妖精の話を聞くのもいいですが、やはり自分の眼で見た方が深く知ることができます。百聞は一見にしかず、です」
くしゃみをしながら余は、いつまでも肉をむしゃむしゃやっている息子に目を向けた。すると息子の方でも余の視線に気付いたらしく、口の周りを脂で光らせながらにたりと笑った。
「パパも食べたいのですか」
「お前、その肉を博識君にもらったと言っていたな」
「博識かどうかは知りませんが、あのお兄さんにもらいました」
「少なくともお前よりは物知りだ。小憎たらしいクソガキめ」
「おお、怖い」先の親友そっくりの身振りで、息子は首を竦めた。
余は頭上の博識君を仰ぎ見る。
「どうもうちの馬鹿息子が貰い物をしたようで。礼を言わねばならないね」
「なに、大した物ではありませんよ」博識君はその羽ばたき方に劣らぬ悠然とした口調で答える。「ささやかなお土産です」
「そうかそうか。して、博識君。そのお土産というのは、私の分もあるのかね?」
顔から火が出る思いであった。土産物の催促など、浅ましいことこの上ない。普段の余であったら、あまりの羞恥心で悶死しているところである。だが今はそんなことを言っている場合ではない。意地とか見栄で腹が膨れれば苦労はない。
「やっぱりパパも食べたいのですね」
「君の意気地も食い意地には勝てないわけだ」
外野が何やらうるさいが、構うだけ損なので放っておく。さすがに博識君にまで笑われたら立ち直れないと思ったが、彼は涼しげな笑い声を上げて飛び回るばかりであった。
「ちゃんと用意してありますよ。今取って来ますので、しばしお待ちください」
そう言い置いて、博識君は飛び去った。そして、がやがやと喧しい二つの〈肉〉を尻尾であしらっているうちに戻ってきた。
「どうぞ、受け取って下さい」
余は投下された骨付き肉を受け取った。血のにおいが僅かに立ち上ってきた。
油断をすれば口の端からこぼれそうなほどに、余の口には唾液が満ちていた。一も二もなく、余は骨付き肉にかぶり付いた。血の味がする。肉の味である。それはまた、命の味でもある。
本当に美味いと思う時ほど、言葉は出ない。余は黙々と肉を、文字通り骨の髄までしゃぶりつくした。
「ところで博識君」
「なんでしょう」
「これは何の肉かね?」
「僕を怒らせた者たちの肉です」
その答えに舌を巻いた。博識君が怒ることに驚きであったし、彼が博識なだけでなくそれなりの力を有していることに脱帽もした。立派になったものである。
いや、ただ見惚れているだけではいかん。肉を食うだけでなく、それを己の血肉と化さねばならぬ。余は口の周りを肉から染み出る脂で濡らしながら、心の中では「精進、精進」と唱えていた。
すっかり腹が満たされると、途端に眠気がやって来た。余は博識君とその他に別れを告げ、普段の寝床へと向かった。
噴火が収まったとはいえ、島の至る所には溶岩が残っていたし、焦げ臭さも漂っていた。炭となった木々や、冷えて黒くなった溶岩を眺めていると、自分がこの世の終わりに立っているような気分になった。余は〈この世の終わり〉というものを見たことがなく、博識君の話に聞いただけであるが、およそこのような景色なのだろうと思う。黒と灰色ばかりが目立つ、荒涼とした景色。なかなかどうして寂しいものがある。
幸いにも、余の寝床は無事に残っていた。身を横たえると、すぐに瞼が重たくなった。
こうしてみると、海に流されたのが遠い昔のことのように思える。塩辛い海水や、痛いほど強い雨は、すっかり過去の記憶となっている。
流れ着いた島では、歯が欠けた。夢の中の出来事のようでもあるが、舌で触ると現実に起きたことだと分かる。確かに余の歯は欠けたのである。欠けた歯は、どこへ行ったのか知らん。
そんなことを考えているうちに、余は眠りの世界へと沈み込んだ。包まれるような、深い眠りであった。
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